第2話
昼休みのチャイムが鳴り終わると、俺は慌てて席を立った。
教室に残っていては危険だ。
あいつらの標的になる。
俺は足早に廊下を歩き、階段を駆け上がった。
目指すは屋上——この学校で唯一、少しだけ安全な場所。
重い扉を開けて屋上に出ると、秋の冷たい風が頬を撫でていく。
コンクリートの床には落ち葉が散らばり、遠くから街の騒音が微かに聞こえてくる。
俺は屋上の隅、給水タンクの陰になる場所に座り込んだ。
ここなら見つからない。そう思っていた。
ガチャリ。
扉の開く音が響いた瞬間、俺の心臓が激しく跳ねた。
まずい。見つかった。
「よお、蒼真くん」
聞き慣れた声が俺の背筋を凍らせる。
振り返ると、そこには工藤竜也が立っていた。
工藤は俺と同じ中学三年生だが、体格は一回りも二回りも大きい。
身長は百七十センチを超え、部活で鍛えた筋肉質な身体は制服の上からでもよく分かった。
短く刈り込んだ茶髪に、鋭い目つき。
口元には いつも薄ら笑いを浮かべている。
そして工藤の左右には、いつもの取り巻きたちが控えていた。
右側にいるのは佐々木——工藤の腰巾着として有名な男だ。
小太りで眼鏡をかけた彼は、自分では何もできないくせに工藤の威を借りて弱い者をいじめることに快感を覚えているタイプだった。
左側には田辺と山田がいる。
どちらも工藤に憧れているらしく、いつも彼の行動を真似している。
特に個性もない、その辺にいそうな平凡な顔をした連中だが、集団になると途端に凶暴になる。
「隠れても無駄だって知ってるだろ?」
工藤の声には、獲物を見つけた獣のような愉悦が混じっていた。
「俺たちはお前を見つけるのが得意なんだからさ」
四人が俺を取り囲む。逃げ道はない。
フェンスを背にして座り込んだ俺には、もうどこにも行き場がなかった。
工藤が俺の顔を覗き込む。
「今日もいい顔してるじゃん。また親父にボコられた? その腫れ、昨日より酷くなってない?」
取り巻きたちがクスクスと笑い声を上げる。
俺は答えなかった。
答えても無駄だということを嫌というほど学んだからだ。
「おい、無視かよ」
工藤の表情が変わる。
蹴りが俺の腹部に突き刺さった。
鈍い痛みが身体を駆け抜ける。
息が詰まって、自然と身体が前に折れ曲がった。
背中がコンクリートの壁に叩きつけられる。
でも俺は声を出さなかった。
声を出せば、あいつらはもっと喜ぶ。
俺の苦痛こそが、あいつらの娯楽なのだから。
「相変わらず面白くねー奴だな。もっと反応しろよ」
「そうそう、せっかく遊んでやってるのにさ」
山田が俺のカバンに手を伸ばした。
「おい、こいつの鞄見てみろよ。今日は何が入ってるかな?」
「やめろ」
思わず口に出た言葉だった。でも時すでに遅し。
山田は俺のカバンをひったくると、勢いよく中身をぶちまけた。
教科書、ノート、筆記用具、消しゴム——俺の持ち物すべてが屋上のコンクリートに散らばる。
風に煽られて、ルーズリーフの紙が宙を舞った。
工藤が俺の数学の教科書を拾い上げる。
「こんなボロボロの教科書使ってんのかよ。ページ半分取れてるじゃん」
確かにその教科書は酷い状態だった。
背表紙はテープで補修してあるし、所々のページは破れている。
昨日の夜、父親がぶちまけたビールの染みも乾いて茶色くなっていた。
でもそれは、俺が唯一持っている教科書だった。
新しいものを買う金なんてない。
「貧乏人は違うなあ。普通の人間なら、こんなゴミみたいな教科書使わないよ」
「そりゃそうだよ、蒼真の家って、あのボロアパートだろ? 家賃三万円とかの」
「三万? マジで? 俺んちの駐車場代より安いじゃん」
みんなで大笑いしている。
俺の貧しさが、あいつらにとっては最高の娯楽らしい。
「つまんねー奴。もうちょっと面白い反応しろよ。泣くとか、怒るとか、土下座するとかさ」
「そうだよ。いつも黙ってるだけじゃ、こっちも楽しくないって」
でも俺には、もう何の感情も残っていなかった。
怒りも、悲しみも、屈辱感も——すべて摩耗して消え去ってしまった。
残っているのは、ただの空虚だけ。
俺は黙々と散らばった持ち物を拾い集め始めた。
破れたノートのページを集め、傷だらけの教科書を拾い上げ、転がったシャープペンシルを探す。
風で飛ばされたプリントを追いかけて、よろよろと立ち上がった。
「チッ。本当につまんねー奴だ」
やがて、あいつらは飽きたように屋上から去っていった。
扉が閉まる音が響いて、ようやく静寂が戻ってくる。
一人になった俺は、フェンスの近くまで歩いていった。
金網の向こうに見える景色——校庭で体育の授業を受けている生徒たち、その先に広がる住宅街、遠くに見える山々。
そしてはるか下に見える地面。
高さは四階分だ。
ここから飛び降りたら——。
「楽になれるのかな」
独り言が風に吹かれて消えていく。
でも俺には、死ぬ勇気さえなかった。
痛いのは嫌だし、怖いのも嫌だ。
それに、もし死に損ねたら、今以上に惨めな思いをすることになる。
結局、生きる勇気も死ぬ勇気もない。
「俺って、本当にクズだな」
教科書を胸に抱えながら、俺は自分の人生を振り返った。
十五年間生きてきて、何一つ良いことがない。
友達もいない、恋人もいない、将来の夢もない。
あるのは暴力的な父親と、いじめっ子たちと、破れた教科書だけ。
希望なんてどこにもない。
未来なんて想像できない。
ただ苦痛だけが、永遠に続いていくのだろう。
風がより強くなって、俺の前髪を揺らした。
校庭からは生徒たちの楽しそうな声が聞こえてくる。
みんな輝いて見えた。
生きる意味を持っているように見えた。
それに比べて俺は——。
何のために生きているのか、全く分からない。
存在する意味すら見つけられない。
ただ息をして、ただ日々を過ごして、ただ時間を無駄にしているだけ。
午後の授業開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
俺は重い足取りで屋上の扉に向かう。
また教室に戻って、また机に座って、またあいつらの冷たい視線を浴びながら授業を受けるのだ。
そして家に帰れば、また父親の暴力が待っている。
明日になれば、また同じことの繰り返し。
永遠に変わらない、絶望的な日常。
扉の取っ手に手をかけながら、俺はもう一度だけ振り返った。
青い空に白い雲が浮かんでいる。綺麗な秋の空だった。
でもその美しさも、俺の心には何も響かない。
すべてが無意味で、すべてが虚しかった。
俺は扉を開けて、また地獄のような日常に戻っていく。
それしか、俺にはできないのだから。
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