第6話 妻になるか娼婦になるかの選択肢 後編(妻視点)
「ママ~!」
五歳になる息子が保育士の手を放し私の下へと駆けてくる。
「良い子にしてた?」
「うん!」
「そう、よしよし」
私の足に縋り付き満面の笑顔で見上げてくる……愛おしい存在。
「今日の晩御飯、何食べたい?」
「えっと、カレーライス!」
「分かった。先生にご挨拶してスーパーに行くよ!」
「うん!」
離婚して実家に戻り息子の護(マモル)を産んだ。今は実家から離れたこの小さな町で親子二人で暮らしている。幼いながらも笑顔を絶やさず母である私を気遣う姿は彼に似ていて……まるで彼に守られているかのような錯覚をする。
私が唯一愛した彼に……。
中小企業の社長のひとり娘として生まれた私は、望む物は何でも買って貰えるような甘やかされた存在だった。そんな私は多少傲慢で鼻持ちならない存在に成長していたと思う。
中学に入った頃からクラスメイトに無視されると言う事が始まりで、物を隠される、壊されると言った虐めは何時しか突き飛ばす、蹴る、殴ると言った暴力にまで発展した。
虐めに気付いた両親が学校に訴え出て加害者が謝罪に訪れ問題は解決したが私が学校に戻ると言う事は無かった。
同世代の人物に対する恐怖症。
少人数なら何とか耐えられるけれど、大人数が通う学校には行けそうになかった。それならばと勧められたのがフリースクール。私のように学校に行けない子供が少人数通う学校だった。
清潔で開放感のある場所だった。先生は男女二人居て私の担当は女の先生だった。四十前の穏やかな人で何時も真剣に話を聞いてくれたり時には厳しく諭してくれたり高校に入る頃には私の対人恐怖症はすっかり癒えていた。私の心を癒したのは間違いなくこの先生だ。
その先生が杉山小夜子……猛の母親だった。
猛は時々フリースクールに遊びに来ていて私とも顔見知り程度には交流があった。猛と再会したのは短大の卒業式の打ち上げで無理矢理連れて来られたホストクラブ。
『えっ? レオちゃん?』
『もしかして猛君?』
再会の喜びも束の間、先生が難病に侵されている事を知った。先生の病気は治療に高額な医療費が掛かると聞いて一も二も無く協力させてと叫んでいた。
父の会社に就職したが傾きかけた企業、しかも身内の私は微々たる給料しか貰う事は出来ず、借りられるだけ借金して猛に渡していた。それでも先生は一向に良くならず、とうとう闇金にまで手を出してしまった。
結局私のした事は愛する人を傷付け、先生をひとり寂しく逝かせてしまう結果しかもたらされなかった。
半年間続いた尚嗣さんの援助のお金も到底先生を助ける足しにはならなかった。空になっていた病院のベッドに縋り付き泣いた。
街中で再び猛に会わなければ今も幸せな結婚生活を送っていたのだろうか? 息子の護と三人で楽しく食卓を囲んでいたのだろうか?
否、あの人は少しも私を信じてはくれなかった。
所詮はホストに入れ揚げた頭と尻の軽い女と思われていたのだろう。
私が身体を許した相手は尚嗣さん、貴方ひとりだけだと言うのに……。
「護、どうしたの? それ」
「サンタさんにもらった」
「あら、良かったね」
何時ものように駆け寄って来た護の手には奇麗にラッピングされたプレゼントがあった。今日はクリスマスイブ、園が用意してくれたものだろう。
「ぼくだけ、ふたつもらった」
「えっ? 何で?」
「しらない! ないしょだって」
「そう。余ったのかな?」
アパートに帰りプレゼントを開けて見ると、ひとつはカラフルなキャンディーで、もうひとつは高級そうなチョコレートだった。
何この差!?
その時は深く考えずにいたが、その後も不可思議な出来事が続いた。
「散歩に行った先の公園で護君が男性に道を尋ねられたみたいで……お礼にって、これ」
保育士に渡されたのは男の子が好む玩具だった。何故、園児に道を尋ねる!?
「通りすがりの男性の風に飛ばされて園内に入った帽子を護君が拾ってくれたみたいで……お礼にって、これ」
渡されたのは幾つもの絵本。今日って風吹いていたかしら?
「流石に私もおかしいと思うんですけど、門の前で転んだ男性に護君が大丈夫? って声を掛けたみたいで……これがそのお礼……警察呼びます?」
計ったように護にぴったりな数枚の子供服だった。
間違いない! 変質者が護を狙っている!
変質者が現れるのは決まって水曜日。護は実家に預けて園周辺を警察にパトロールして貰うわ!
しかし、その日に限って該当する変質者は現れなかった。
「ただいま」
「お帰り~遅かったわね」
不安な顔を覗かせた母が玄関先で待っていた。私は脱力した身体で靴を脱ぎ今夜は泊まっていこうと心に決める。
「結局、変質者は現れなかったのよ」
「そ、そう?」
妙にそわそわした母を怪訝に思いながらリビングのドアを開ける。
「ママおかえり!」
「変質者は無いだろう?」
そこには護を膝に抱っこした尚嗣さんの姿があった。
「なっ、なっ、何で居るの~!!!?」
「再会の第一声がそれって酷くないか?」
「お父さん!? お母さん!?」
「落ち着け、玲於奈。護が驚くだろう」
「護ちゃん、あっちでバアバとケーキ食べようね」
「うん! おじちゃん、またね!」
「またね、護君」
尚嗣さんに手を振りながら出て行く護を見送り、私に視線を戻した彼をキッと睨み付ける。
「まさかとは思うけど、護に近付いてお礼を押し付けたのって尚嗣さんなの?」
「ああ、そうだ」
「何故!?」
「護は俺の子だろう?」
「なっ!」
何を今更、この男は!?
「違うわよ!」
「俺にそっくりだ」
「はっ! 貴方が言ったんでしょう? 俺の子じゃ無いって!」
「あの時は先入観で自分の子だとは思えなかった」
「ああ~不妊症だったかしら? それで? 今更何の用?」
一瞬、傷付いた様な顔を見せた彼がソファーから立ち上がり頭を下げる。
「護を引き取らせて欲しい!」
耳を疑った。本当に今更何を言っているのだ、この男は!?
「ふざけないで!!!」
「玲於奈……」
「誰が……誰がアンタなんかに渡すものですか!」
「玲於奈、落ち着けって!」
「お父さんは黙ってて!」
私のあまりの剣幕にオロオロする父。正気の沙汰ではない尚嗣の言葉に怒りが溢れて取り繕う余裕も無い。
「貴方が護を育てる権利は無い!」
「DNA鑑定は済ませてある。間違いなく俺の子だった」
「そう言う事じゃない!」
「そう言う事って……?」
私は深呼吸して乱れた息を整える。護に聞かせる訳にはいかないから。
「あの子を殺そうとした貴方になんて育てる権利は無いって事よ!」
言葉を失くした尚嗣が膝から崩れ項垂れる。
「貴方、言ったわよね? 堕胎か離婚かって」
「違う! あの時はそう言ったが俺を選んでくれたら誰の子だとしても俺の子として育てるつもりだった」
「はっ! それを信じろと?」
「嘘じゃ無い! 信じてくれ!」
「私も同じ事を言ったわ。信じてって! だけど貴方は私の言う事なんかはなから聞こうともせず追い出したのよ!」
「すまない……」
「帰って! そして二度と護には会わないで!」
項垂れながら帰って行く尚嗣の後ろ姿を見つめ零れそうになる涙を必死に堪えた。
さようなら。私の愛した人……。
「玲於奈……ちょっと良いか?」
父の真剣な眼差しに射貫かれ黙ってソファーに腰を下ろす。
「何? 何と言われても護は渡さないわよ?」
「ああ、それは分かっている」
戸惑う仕草を見せながら父は語り出した。
「護が生まれて間もない頃、尚之がひょっこりウチに来た事があってな」
尚之とは尚嗣の父親だ。
「丁度、お前が仕事を探しに留守にしている時だった。ぐずる護を見た尚之は『息子の赤ちゃんの頃にそっくりだ』と言ってDNA鑑定するよう頼まれたんだ」
「承諾したのね?」
「だって、お前は何を聞いても父親の事を言わないから」
はああ~っと溜息を吐いて続きを促す。
「結果、尚嗣君の子供だったと判定出来た」
「そんなに前に分かっていて、あの人ずっと放置していたのね? 呆れた……」
「それは違う」
「えっ?」
「尚嗣君に真実を話して『迎えに行ってやれ』って言った時『今更、どの面下げて迎えに行けって言うんだよ』って泣き崩れたそうだ」
「……」
「会わせる顔が無いとも……」
重い沈黙が流れる。時計の秒針の音だけが聞こえていた。
「だったら何故今頃になって……」
「お前に紹介した会社な、尚嗣君の口利きだ」
「はあ?」
「あのアパートも半分は尚嗣君が払ってる」
「嘘でしょう……」
どうりで安い家賃だと思った。
「護を預けている保育園も尚嗣君が運営資金を援助している」
次々に聞かされる衝撃の事実に頭が痛くなってきた。ちょっと待ってと父に言い、お茶を淹れて戻る。
「護の保育園の近くに尚之の取引先があってな、尚嗣君が担当を買って出て週一回その会社に赴いていたらしい。帰りに護を見る為に、な」
「はいはい、それが水曜日ね?」
「年々、大きくなっていく護を見て我慢の限界がきたみたいだ。園長先生に頼んでサンタになって護と触れ合った時、タガが外れたって言っていたよ」
「そう……」
「やっぱり許せないか?」
「……まあね」
言葉を濁しお茶をすする。今はまだ結論は出せない。
「あっ、そうそう。先日小夜子先生、仕事に復帰されたそうだよ」
「ブーーーッ」
「汚いな……」
「さ、小夜子先生……生きているの?」
「ああ、息子の事でお前に迷惑を掛けた上に援助までしてもらうのは道理に合わないって猛君と一緒に遠くの病院に転院したんだよ」
猛君……塀の中じゃ無かったんだ。
「安心したか?」
「ええ、この上なく」
残りのお茶を飲み干して疲れたからと席を立つ。
真実を聞いた私は今後どんな選択をするのだろう? 既に眠ってしまっていた護を抱き締め我慢していた涙をそっと流した。
「あっ……変質者」
「わ~い! おじちゃ~ん」
「護、おじちゃんが抱っこしてやろう」
保育園からの帰り道、待ち伏せしていた尚嗣が電柱の影から姿を現した。今日は水曜日だ。
あの日から諦める事無く尚嗣は毎週水曜日に会いに来る。親子三人あの家で食卓を囲むのもそう遠くない未来かもしれない。
「今日はおじちゃんとご飯食べに行こうか?」
「うん! いく~!」
勝ち誇ったように私を見て笑う尚嗣。余裕があるのも今の内よ!
「護、今日からこの人の事『おじちゃん』って呼んじゃ駄目よ?」
「ちょっ、玲於奈。どう言う事だよ?」
「え~! じゃあ何てよべばいいの?」
「尚嗣さん、貴方が決めていいわ。パパって呼ばれるか、お父さんって呼ばれるか」
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