不協和音の残響

瑳帆

第1話 好きにさせて貰う 前編(妻視点)

「余命……半年って言われた……」

「えっ?」

「会社、辞めてきた」

「えっ!?」


 胃の不調を訴えていた夫が検査入院を終え帰って来たのは夜中だった。足元もおぼつかない程酔って玄関に倒れ込むとおもむろにそう言って渇いた笑いを浮かべた。


「何かの間違いじゃ無いの? 検査の結果だってそんなに早くは……」

「この耳ではっきり聞いたよ! 死ぬんだよ! 俺は!」

「孝行さん……」


「余命半年……俺の好きにさせて貰う」


 そう言って夫は寝室のドアをバタンと閉めた。


 結婚十五年目。友人の紹介で知り合った私たちは大恋愛とはいかないまでもお互いを思いやるくらいには愛し合っていたと思う。

 残念な事に子供には恵まれず、結婚前から勤めている会社で共働きをしていた。


 夫の名前は笹本孝行。三十八歳の文具を製造販売する会社の営業マンだ。性格は明るく温厚で見目も良い。人付き合いも良く真面目で優しい。しいて短所を挙げるなら押しが弱く流されやすい所だろうか。その性格が祟って営業の成績が伸び悩み胃痛を引き起こしていたのだが。


 私の名前は笹本礼子。孝行よりひとつ年上の三十九歳。正確には来月四十になる。有名ホテルのレストランのパティシエをしている。勿論菓子だけじゃ無く料理も得意だ。家事は分担してやっているが食事の担当は私が担っていた。


 シンと静まり返る寝室のドアをそっと開けると夫の規則正しい寝息が聞こえてきた。一先ずホッとして未だに受け入れていない余命の話を明日ちゃんと聞かなければいけないなと思いながら伝染したかのような胃の痛みを感じ苦笑いしてベッドに潜り込んだ。




 翌朝目を覚ますと夫はまだいびきをかいて眠っていた。


 そう言えば、会社辞めたんだったわね。


 今日は私の仕事は休みだ。後で医者と夫の同僚に話を聞こうと心にメモをして朝食の用意に取り掛かる。数日前から作っていた胃に優しいメニューを考え冷蔵庫を開ける。


「鮭と青菜のお粥と豆腐の味噌汁……だし巻き卵で良いかな?」


 大根をすり下ろしていると夫が寝室から出てきた。腫れぼったい目にボサボサの髪、普段の男前がなりを潜めている。おはようと声を掛けても返事を返す事無く食卓に並ぶ朝食を眺めていた。


「まるで病人食だな」


 悲しみと怒りが混ざった声だった。


「嫌なら食べたい物を作るわよ」

「別に良い」

「そう。食事の後、昨日の話をちゃんと聞きたいんだけど……」

「話す事は無い。好きにするって言っただろう!」

「でも……ちゃんと治療を受けた方が……」


 ガシャーンとテーブルに並べた朝食が床に落ちる。お粥は飛び散り食器は割れ大惨事だ。


「治療なんて意味無いんだよ! 半年後には死ぬんだ! お前は俺に冷たい病室で惨めに死ねって言うのか!?」

「違っ……」

「最期ぐらい好きにさせてくれたって良いだろう!」

「孝行さん……」


 そのまま寝室に飛び込んだ夫は暫くすると出かけてくると言って家を出て行った。残骸と化した朝食を眺めキリキリと痛む胃をそっと擦った。


 真面目で優しい夫はこれまで娯楽に興ずる事が無かった。ギャンブルは皆無、飲みに行くのも取引先の相手か月に一度の友人との飲み会。喫煙も結婚と同時にやめてくれた。


『君の料理が癒してくれるから』


 休日もずっと家に居る夫にストレス発散に遊んでくれば? と言った時に言われた一言。ただただ、嬉しかった。


 もしも本当に余命半年なら夫が言うように好きにさせて支えていこうと決心し病院に赴いた。結果、昨日夫が言った事は真実だった。

 その足で夫の同僚と会い、昨日夫が上司に散々罵声を浴びせ退職届を叩きつけた事を知った。おそらく今までの鬱憤や怒りが爆発したのだろう。夫の同僚にお礼と謝罪をし帰路についた。用意していた昼食は手付かずのままテーブルの上に置いてあった。


 これからどうするか?


 途方に暮れてはいたが元々の性格の所為か気を取り直し夕食の準備に取り掛かる。空腹で胃が痛かったがこれからの事を一緒に食事をとりながら話そうと決め夫の帰りを待つ。だが夫は翌朝になっても帰って来なかった。


 色々と心配はしたが夫もいい大人だ。落ち着いたら帰って来るだろうと思い食事だけ準備をして仕事に向かった。休憩時間に携帯に電話をしても出ない、メッセージも既読が付かない、少し心配になって何時もより早く職場を後にした。自宅であるマンションを見上げると寝室の明かりが点いていた。ホッとしてエレベーターに駆け込む。


 夫が無事に帰って来ていた事に安堵して見過ごしていたのだろう。玄関の見知らぬハイヒール、ソファーに掛けてあった可愛いコートに気が付かなかった。


 そして……何の疑いも持たず私はそっと寝室のドアを開けた。


 そこには若い女と裸で抱き合う夫の姿があった。




 女の名前は三好真奈美。二十五歳の夫の部下だった。


「ずっと、笹本さんの事が好きでした。叶わぬ恋だと諦めていたんです。でも! 昨日笹本さんが退職したと聞いて連絡したら余命宣告されたって……」


 夫に寄り添い涙ぐむ女。張りのある肌に艶やかな髪、豊満な胸と引き締まった腰、手足はスラリと長く細く。家事なんてした事無いだろうなと思える程の美しい指が夫の手に絡んでいる。


「お願いです! 奥様! 笹本さんが最期を迎えるまで一緒に居させてください! お世話をさせて下さい!」


 お世話って下の世話? ああ、既に下の世話していたわね?


「お前を追い出したりしないし離婚も考えていない。だから彼女の願いを聞いてくれ」


 何が「だから」なのだろう? 追い出したりしない? 離婚もしない? だから言う事を聞けと? 意味が分からない。このマンションは私たちの共同名義で二人でお金を出し合って買った家で追い出す権利など無いのだから! その家に若い女を勝手に連れ込んだ挙句堂々と浮気していて離婚はしない? 言い返す言葉はあるのにあまりの事に呆気にとられた私は声が出ない。キリキリと胃が痛むだけだった。


「まあ、お前が拒否しても俺は勝手にするけどな!」


 呆然とする私を置き去りに二人で寝室へと消えていった。


 どのくらいそうしていただろう……ふと女のすすり泣く声に意識が浮上する。見てしまったあられもない二人の痴態が蘇り吐き気を催す。急いで水道水を込み上げてくる胃液と共に飲み下しキリキリと痛む胃を押さえる。


 でも、本当に痛いのは心だった。


 夫は今まで浮気どころかキャバクラや風俗にも行ったことが無い真面目で誠実な人だった。夫の友人に『たまには女の子の居る店に行きたいから許してやってよ~奥さん』と言われる程だった。


 なのに……。


「駄目よ……奥様に聞こえる」

「大丈夫、聞こえないって……」

「あっ……孝之さん」

「真奈美……真奈美……」


 あ~!!! 頭が痛い!!! 胃が痛い!!!


 その日から頭痛(フリン)と胃痛(ストレス)との戦いが始まった。




「おい! 真奈美の分の食事も用意しといてくれ。真奈美は料理なんてした事無いからな」


 でしょうね! 料理どころか掃除、洗濯もしてないわよ?


「何で病院から貰った薬があるんだ! 俺は薬なんて飲まないぞ!」


 勝手に捨てないでよ! それは私に処方された薬よ!


「ああ……真奈美……お前だけだ……俺を癒してくれるのは……」


 そう。もう私の料理は必要無いのね……。




 そして三ヶ月が過ぎた頃。


「お前が真奈美を追い出したんだろう!?」


 昨日の夜、夫が寝入るのを待って真奈美さんが私の眠るリビングに顔を出した。


『今まで申し訳ございませんでした。私ここを出て行きます』


 はらはらと涙を流し頭を下げる彼女。


『どうして? 貴女に出て行かれたら困るわ』

『もう耐えられません! 奥様に不快な思いをさせている事も孝行さんと一緒に居る事も!』

『今更なんだけど?』

『ごめんなさい! 浅はかでした! 私が孝行さんを支えていきたいって烏滸がましい事を思ったばっかりに』

『だったら最期まで面倒見てくれない?』

『もう無理です……私が好きになったのは優しくて誠実で面倒見が良い孝行さんで……でも、今の孝行さんは……』


 そう言って彼女は出て行った。会社も辞め地方の実家に帰るそうだ。迷惑を掛けたと言って退職金を全額置いて行った。まあ、不倫の慰謝料としては到底及ばないけど、ね。


「お前が出て行けよ! 俺の最期は真奈美に看取られて逝きたい!」


「ああ、その事なんだけど……」


 さあ! 断罪を始めましょうか?



「貴方、死なないわよ?」



「はあ?」

「只の胃潰瘍だもの」

「嘘だ! 俺はちゃんとこの耳で聞いた! 余命半年だって」

「ええ。医者もそう言ったって言っていたわ」

「ほらみろ! 俺はもう直ぐ死ぬんだよ!」


「そしてこうも言っていたわ。このままの生活を続ければってね」


「はっ?」

「貴方、先生の話は最後までちゃんと聞きなさいよ」

「どう言う事だよ?」

「だから、検査入院するまでのような生活を続ければ命にかかわるから改めろって事だったのよ」


 検査前の夫は仕事が上手くいかず不規則な生活をしていた。食事を抜いたり帰宅後浴びるように酒を飲んだり、かなりストレスが溜まっていたようだった。


「俺は……死なないのか……?」

「そうよ、ピンピンしてるじゃない」


 夫には内緒で薬を混ぜた飲み物を出していた。でも一番の効き目はストレスの無い生活だろう。痩せこけていた身体も丸みが戻り顔色も良く健康そうだ。


 気まずそうな顔の夫が急に頭を下げてきた。


「今までの事を許せとは言わない! でも言わせてくれ! すまなかった!」


「すまなかったで済めば医者は要らないのよ?」


「えっ? 医者?」


 ポカンと口を開ける夫に冷ややかな笑みを送る。


「貴方が真奈美さんを連れて来てからずっと胃がキリキリ痛んでいたわ。後、傍若無人に振る舞う貴方の態度にもストレスを感じていたの。毎日、毎日、あんあん! うんうん! とお盛んで煩くて眠れない日が続いていたし」


「すまない! 余命半年と聞いてどうかしていたんだ!」


「先日、検査を受けてきたの……」


 顔面蒼白な夫がゴクリと喉を鳴らす。


「私、余命半年なんですって……勿論このままの生活を続ければっては言われなかったけどね」


「……えっ?」


「貴方が捨てた薬ね、私に処方されていた物よ? 追加で貰いに行ったけど貰えなかったわ……辛かった」


「あああ……許してくれ……許して……」


 私に縋り付き涙を流す夫に多少は溜飲が下がったけど許すつもりは無い。


「仕事と貴方たちの世話で検査に行くのが遅くなったのよ? 反省してね」


「礼子……」


 貴方の所為でこうなったって分かって貰えたかしら? 後悔して苦しめばいい。


「私ここを出るわ。離婚届にも判を押しているから記入したら出しておいて。余生は静かな町で送る事になっているの。手続きももう済ませてあるから」

「駄目だ! ここに居てくれ!」

「あら? さっき出て行けって言ったでしょう?」

「それは……」

「離婚したら真奈美さんを呼び戻せばいいじゃない、癒しなんでしょう?」

「俺は離婚したくない! お前を……お前の最期を看取らせてくれ!」

「冗談じゃ無いわ! お断りよ!」

「礼子……お願いだ……償わせてくれ……」


「それは償いと言う名の自己満足よ!」


 どうせ死ぬからと言う免罪符で好き勝手していた夫。今まで我慢し過ぎた分暴走した事は分かるがあまりにも身勝手過ぎた。


 苦しむ私を見て見ぬふりをした貴方が悪いの。貴方の所為で死んでしまう私を思い出し良心の呵責に圧し潰されながら生きればいい!


 縋り付く夫を引き離し用意していたカバンを持って玄関に立つ。


「残りの人生、好きにさせて貰うわ」

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