第7話 椿が残した脚本

図書館の片隅――午後の光が斜めに差し込む窓際のベンチに、遥は一人腰を下ろしていた。

ひざの上には、やわらかい白色の封筒。

南雲椿が遺した、たった十枚の物語がそこに収められている。


(これが……あなたの、最後の声)


遥はそっと封を開け、原稿用紙を取り出した。

薄い紙に並んだ手書きの文字は、どこか震えていて、でも一文字一文字に迷いがなかった。


タイトルは、こう記されていた。


『終幕のあとで』

南雲椿・作


静かに息を吸って、遥はページをめくりはじめた。


 



『終幕のあとで』 南雲椿


【登場人物】

少女 ―― 小さな部屋で、一人暮らしている。

影  ―― 少女の心の声のような存在。本人にしか見えない。


【舞台】

薄暗い部屋。窓からは、夕陽が差し込んでいる。

壁際にある本棚、使い古した机、小さなベッド。


 


(暗転。光が当たるのは少女ただ一人)


少女:(ノートに何かを書いている)

   「……今日は、あたたかかった」

   「だから、カーテンは開けておいた。風がふわっと入ってきて」

   「少しだけ、生きててもいいかなって、思った」


(影が現れる。少女の背中越しにそっと立つ)


影: 「また誰かに宛ててるの?」


少女:うん。(少し照れたように笑う)

   「ほんとは、誰に届くかなんて、わかってないけどね」


影: 「じゃあ、どうして書くの?」


少女:(ペンを止めて、静かに言う)

   「書かないと、消えちゃいそうだから」


影: 「何が?」


少女:「私が、ここにいたこと」

   「……誰にも見つけてもらえなかったとしても。

    せめて、このノートだけは、生きた証になってほしいの」


影:(少し黙って)

   「きっと、君の物語は、誰かを泣かせるよ」


少女:「それでいいの。

    涙って、心がちゃんと生きてる証だから」


(光が、少女の顔に差し込む)


少女:「ほんとうは、さよならって言いたくなかった」

   「でも――きっとこれが、私にできる一番優しい言葉なんだと思う」


影: 「最後に、ひとつだけ聞いてもいい?」


少女:うん。


影: 「君は、本当は……生きたかった?」


(少女は、答えずにうなずく)

(静かに、舞台が暗転)


モノローグ:

「さよならを言うのは、ほんとうは、生きたかった証だから。」


 


(終幕)



 


遥は、原稿の最後の行を見つめたまま、長い時間ページをめくることができなかった。


文字はもう、そこにはなかった。

だけど、その余白にこそ、椿が言いたかった本当の声が宿っている気がした。


息を呑み、遥はそっと目を閉じた。


胸の奥が、じんわりと熱くなっていた。

泣くつもりなんてなかったのに、頬を涙が伝っていた。


(椿さん……)


誰にも届かないと思っていた声が、いま、遥の中で確かに響いていた。

彼女の最期の脚本は、優しさと、悲しさと、静かな祈りに満ちていた。


それは誰かを責めるものではなく。

ただそっと、「ありがとう」と「さよなら」を伝える物語だった。


 


その夜――


遥は、原稿を胸に抱え、玲司の家の門をくぐった。

夜風に揺れる風鈴が、静かに鳴っていた。


インターホンを押すまでもなく、玄関の戸がすうっと開く。


玲司は、もう遥が来ることをわかっていたようだった。


「……読んだのか」


「はい」


遥は小さくうなずき、原稿を差し出した。


玲司は黙って受け取り、縁側に腰を下ろす。

そして、何も言わずに読み始めた。


 


読み終わるまで、長い沈黙が続いた。

蝉の声も止み、ただ風の音だけが静かに吹き抜ける。


やがて、玲司は目を閉じて、原稿を胸に抱いた。


「……椿は、俺の中でずっと途中のままだった」

「でもこれで、ちゃんと終わらせてやれる気がする」


遥は静かに聞いていた。

彼の声はかすれていたが、その響きは確かだった。


「ありがとう、佐原さん。あんたが来なかったら、俺は一生……椿の物語から逃げてた」


遥は、そっと答える。


「逃げてなんかいませんよ。

 玲司さんはずっと、その続きを誰かに託そうとしてた。

 その誰かに……私がなれたなら、嬉しいです」


玲司は、ゆっくりと頷いた。


「――なら、書こうか。

 俺と、あんたで。

 椿のために……そして、俺たち自身のために」


その言葉に、遥の胸が熱くなる。


この物語は、始まりなおすのだ。

さよならの、そのあとを紡ぐ物語として。


 


星が、夜空にひとつ、瞬いていた。

椿がどこかでそれを見ていてくれたら、と遥は思った。


 


彼女の生きたかったという願いを、

誰かの心に繋ぐために――物語は、今、動き出す。

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