最終章 羅生門の雨がやんだあと

翌朝、窓の外には晴れ間が差していた。

あれだけ降っていた雨が嘘のように、校舎の隅々まで光が差し込んでいる。

空の色まで、少し澄んで見えた。


1時間目の古典演習の時間。

教室にはいつもと変わらぬ空気が流れていた。

だが、えみの胸の中には、昨日までとは違う静かな芯のようなものが生まれていた。


「ねえ、笑、あれから大丈夫だった?」


笑が教室に入るなり、素子もとこが心配そうに話しかけてきた。

笑は苦笑して答えた。


「……まあ、なんとかなったよ。ありがとう、素子。」


そこへ圭一けいいちも顔を出した。

吉川よしかわに殴られた頬の絆創膏が痛々しい。


小野おのセンパイ、正義の味方かよ~、って噂だぜ?」

「やめてよ、それ……。

圭一くんこそ、ほっぺた大丈夫?」

「正義の味方のためならこんな傷なんてことないさ。」

「本当にありがとうね。」


笑は苦笑しつつも、どこか胸の奥が少し温かくなっていた。

みんなが私のために力を貸してくれた。

そう思えるだけで心が救われた気がした。


やがてチャイムが鳴り、逆井さかい先生がゆっくり教室に入ってくる。

手に持ったチョークで黒板に、「羅城門」と大きく書く。

その前に立って、生徒たちを静かに見回した。


「――“悪”を肯定する理屈は、いつも私たちのすぐそばにあります。

けれど、理屈だけでは、誰も救われない。

人を裁く言葉と、人を導く言葉は、紙一重なんです。」


教室のどこかで、誰かが小さく息を呑んだ音が聞こえた。

笑はノートを見ながらも、ふと昨日のことを思い出していた。


ポケットのスマホの重み。

震える指。

羅城門の石段。老婆の目。

松明に揺れる下人の影。

そして、あの声。


――お前は、何を選ぶ?


あの問いは、これからもきっと繰り返し自分の前に現れる。

完全な答えなんて、きっと出せない。

でも、笑は今ひとつ知っていた。


(迷ってもいい。揺れてもいい。

でも、“まっすぐでいたい”って思うことだけは、手放さない。)


「小野、どうだ?」


逆井先生の問いかけに、笑は顔を上げた。

今度は、はっきりと視線を返す。


「――善悪を決めるのは、他人じゃない。

でも、自分の中の“まっすぐでいたい”って気持ちは、きっと裏切っちゃいけないって思いました。」


教室がしんと静まり返る。

誰もが、言葉の重みをかみしめるように黙っていた。

机の上に映る陽射しが、まぶしいほどだった。

逆井は、満足げに頷いた。


「いい答えだ。……古典とは、過去の言葉を通じて、いまのお前たち自身を映す鏡なんだ。

そして鏡は、時に“門”でもある。君たちがどう通り抜けるかを試す門だ。」



チャイムが鳴る。

授業が終わると同時に、教室の窓から風が入り込んだ。

雨のあと特有の澄んだ匂いが、空気の中に残っている。

ノートを閉じ、教室の出口をくぐりながら、笑は小さく呟いた。


「……あの人も、選んでたんだろうな。生きるために。」


それが正しいかどうかは、まだわからない。

けれど、彼女はひとつの“門”を越えた。

その先に、また新しい問いが待っていることを知っている。


――そして私は、これからもきっと選び続けていく。


背後で、逆井先生が黒板を消す音が聞こえた。

その音はどこか、昨日の雨の名残りがわずかに漂う空気の中に静かに響いていた。

ふと顔を上げると、窓の外に青空が覗いている。


蟋蟀キリギリスの姿は、もう見当たらなかった。

けれど、胸の奥には、何か小さな爪痕のようなものが残っている気がした。


(あの虫が、私に教えてくれたんだ……。)


“国語日和”の朝は、昨日とは少し違う空の下で、静かに始まっていた。



【終】




◇◆◇◆




【作者メモ】


「羅生門の雨がやむまで」お読み頂きありがとうございます。


前作「いたづらに咲いて散って」が古典文学だったので、今作は現代文――芥川龍之介「羅生門」を取り上げた。

「羅生門」の“生きるためのエゴイズム”というテーマは、現代の我々にも通じるものがある。

そこで、羅生門の楼の上と教室の中での2つの事件を結びつけ、「正義とは何か」を改めて問い直してみた。


我々は日常生活の中で迷ったり、選択を迫られたりすることが多くある。

そんな時、文学は自分の答えを出すためのよすがとなる――

それこそが国語を学ぶ意味なのではないかと、僕は考えている。


この作品がそのきっかけとなってくれれば嬉しい限りである。

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