番外編:竜の裏話

 夜の空を飛ぶのが好きだ。

 草木も眠るという午前二時、私は金の翼を悠々と広げて滑空する。化生屋の対価として鱗を数枚喰われたところが、夜風に少しだけ痛んだ。

 眼下に広がる人の街は、こんな時間にもちらほらと光を灯している。『灯火通り』の名を冠する我らが商店街も然り。

 視線を落とせば、お客らしき影の駆けていくのが街灯に照らされて見えた。(私は鳥の如く眼が良いのである)。目的地はどこかと見守って、それが私の店でも夜蓋の店でもないと分かると、数度の旋回を楽しんでから高度を下げる。

 目指した店のバルコニーでは、店主が卓上灯を持ち出して本を読んでいた。

 私の来訪は予想されていたらしい。苦笑いして、そこに降り立つ。人に近いコンパクトな姿に変身するが、角と翼は出したままだ。


「こんばんは、夜蓋」


 私の挨拶に、彼は「こんばんは」と返して本を閉じた。


「リッカさんは良く眠れていますか。生活リズムが崩れていないと良いのですが」


 自らの依頼で夜更しさせておいて何だが、私はあの少年を心配して口にする。夜蓋は「あぁ」と頷いた。


「寝付きは良いらしい」


 どこか困ったように言うのは、リッカさんの寝付きの良さが、あの子の異常性に起因してもいるためだろう。あれほど肝が据わりきっていれば、入眠を妨げるものもない。


「そうですか。……彼は、ですね」


 あえてやさしい単語を選んでも、その言葉は、私の舌にどこか甘ったるく纏わりついた。


 人間というものは、どうにもドラゴンを特別扱いするきらいがある。


 己の善良さを知る者なら陶酔し、己の罪を知る者ならば畏怖し、誰もがたった十九歳の私を偉大な存在のように扱ってきた。

 そしてひとたび別れれば、その強大さに耐えかねるように、私という存在を忘れ去ってしまう。

 人魚の肉をめる人間がいなかったように、このような怪物の存在を受け入れられる人間も、またいないのだろう。残念ながら現代日本に竜と渡り合える勇者は見つからない。


 だから私は、知り合いになりたい人間の前では、すっかり人間に化けた。


 翼を畳み、角を溶かし、瞳孔を丸めて。

 たとえ竜から人に化ける瞬間を見ていても、私が竜であると思い出せなくなるほど完璧にだ。

 ……それを何の気なしに「ドラゴンさん」と呼ばれた時の、驚きといったら。

 リッカさんは私におののかない。勇者でも英雄でも怪物でもなければ、赤子ほど無垢でもないだろうに。


「夜蓋」


 聡明であることを求められた私は、生まれると同時に自分の記憶が偽りであることさえ自覚した。数千年分の黄金のうろ。そこには私が語らった人間たちの記憶もあるのに、所詮幻想に過ぎぬ彼らには参るべき墓もない。

 私は夜蓋の顔を見ながら、薄ら笑いを浮かべて言った。


「あの子、私にくれませんか」


 竜を正眼に見て微笑む少年。

 イニュリアス・ディアの証人たり得る、人の子を。


「そうか」


 身勝手な願望を吐き出した私に、十九年来の友人は、短い相槌を打つ。淡泊であるが、真剣なものは感じ取れた。紫色の唇が掠れた声を紡ぎ出す。


「私に、リッカの仕事を制限する権利はない。職業選択の自由は憲法で認められたことであるし、経験によって知見を広めるのも良いことだ。ただし雇用契約は私の同席のもと書面で交わすことを求めよう」

「…………………………」


 真剣な答えではあった。真剣さの方向性が、想定とは違ったが。


「失礼ながら、それは少々、不粋な答えではありませんか」

「何か間違ったか?」

「いや、ええ、まぁ、リッカさんを写真屋の助手に誘うのが現実的な路線ではありますがね。しかし、私の物言いに、それとは違う含みはありませんでしたか」

「リッカを所有物かのように語ったことは理解しているが」

「理解した上で今の回答であると」

「露悪的であったのは、お前の欲求の強さを表現したに過ぎないだろう。欲があるのは当然だし、その欲がどれほど強かったとしても、お前が本気で他人を物のように扱う気質とは思わない」


 真顔でこれである。

 私は天を仰いだ。屋上の柵へ倒れるように背を預けて、翼が少し邪魔だと思いながら呟く。


「ぶっ飛ばしてぇー……」


 人間どころかそこらの怪物が聞いても脱兎か気絶の二択になりかねないドラゴンの暴言を、無二の友は、やはり「そうか」の一言で受け止めた。


「バルコニーが傷まない程度で頼む」

「冗談に決まっているでしょう」


 言葉遣いを戻して背を起こす。


「だいたい私は、あなたの権利の有無ではなく、あなたの気持ちを聞きたいのですよ。私があの子を連れて行っても良いのですか」

「リッカが望むなら」

「手放しがたいでしょうに」

「私の気持ちなど、リッカが気に掛ける必要はないことだ」


 言うと思った。

 夜蓋の骨には罅ひとつ入らない。こういうものを人は何と呼ぶのか。倫理? 自己犠牲? それとも単に愛情か。


「……やっぱり、私は身を引いておきますよ」

「良いのか」

「えぇ」


 答えに迷いはない。ちょっとした切なさは否めないけれど。


「あなたの癖とその理由を知れただけで、私の収穫としては十分です」


 わざともったいぶって言葉を付け加えれば、夜蓋はとても素直に首を傾げた。その気安い所作に満足して、私はネタ晴らしをする。


「あなた、リッカさんに物事を教える時だけ饒舌になっていますよ。普段は彼に構いすぎないよう言動を自制しているのですね? けれど、『知識は他者から汲むのも良い水』、でしたか。調べれば分かる程度の情報なら与えても構わない。そう感じて、たがが緩むのでしょう」


 私の指摘に、夜蓋は人差し指を自らの口元に当てた。十秒ほどじっくり考えてから、「そのようだ」と肯定する。


「控えるべきだろうか?」

「構わないと思いますよ。水中毒になるほど与えているとは思いません」


 あの子は知的好奇心が強いようだから、教えれば教えただけ夜蓋への好感度が上がる気はするけれど。それは黙っておく。せいぜい懐かれてしまえ。

 白い蛇。痛ましき人魚。虚構だけを抱えて途方に暮れていた竜を、この町へと連れ帰った世話焼きの怪物あやかし

 弟子と扱うこともできただろうに、嘘を語れぬ彼は私を友人と呼んだ。

 ならば私は、そのように在ろう。

 そして、リッカさんが出会ったのが、私でなく夜蓋であったことを、本心から喜ばしいと思うのだ。

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