あやかしさんと夜の蓋

綿月いと

序 人魚のまがいもの ①

 僕を救ってくれたのは、背骨の綺麗なご店主さんでした。


* * *


『お望みのあなたをお貸しします。

 お代はあなたを幾らかです。』


 立て看板には、そのような売り文句が書かれています。

 Ꮪ県Ꮪ市。とある裏通りの商店街。

 けして大きくはない店の前で、看板を乾拭きすること。

 それが、住み込みバイトになった僕の、朝一番のお仕事でした。

 ここ『化生屋』は本日も、お困りのあやかしさんをお待ちしております。


「……しかし、微妙な売り文句ですねぇ」


 僕は看板の前でひとり呟きます。

 ここがお客様に何を提供する店なのか、この文面では分かりにくいでしょう。対価に関する記述だって、まともな感性なら怖ろしげに思えるはずです。

 店主いわく、あんまり気軽に来店されても困るので、わざとそういう表現にしているそうですが。


「リッカ」


 名を呼ばれて振り仰ぐと、二階のバルコニーから、店主たる夜蓋やがいさんが顔を覗かせていました。

 見た目には二十代後半くらいの男性です。白い、長い髪がこちらに垂れて、切れ長の眼をした細面ほそおもてが、僕に向かって微笑んでいます。


「朝食の果物は何にする?」

「昨日、苺を買ってきたので、それでお願いします」

「わかった」


 頷いた夜蓋さんは相変わらず、よたり、ぐらりとした動きで室内に戻りました。

 彼の手が、硝子の器に赤い苺を盛るところを想像します。

 良く熟れたそれはどれくらい甘いでしょうか。


 まぁ、夜蓋さんの肉のほうが美味しいには、決まってるのですけれどね。


 

* * *



 ―─彼と出会いは、数日前に遡ります。



「もう船が来る」


 背後から聞こえた、その異様に乾いた声に、僕は目を覚ましました。

 曇天の海辺。昼間とはいえ二月半ばの空気に鼻先が冷えています。ベンチに腰掛けた僕のポケットで、スマホのアラームが虚しく鳴っていました。


 船が、来る。


 人間の声ではなさそうだったなぁ、と思いながら、寝ぼけまなこを桟橋の方へ向けます。

 ここは見慣れた鳴仙島めいせんとうの船着場。かけられた言葉のとおり、数十メートル先の海上で、小型船が白波を上げていました。日に三度ほど本土と島を行き来する渡し船です。


 僕はどうして船など待っているのでしょう。

 ………。あ、そっか。

 由希に、家を追い出されたのでした。


 ぬるい諦念と共に思考が回り始めます。

 かたわらのボストンバッグは、詰め込んだ着替えやら高校のテキストやらでいびつに膨らんでいました。

 僕はこれから、あてもなく本土へと渡るのです。

 スマホのアラームは着岸予定に合わせてセットしたものでした。それを無視して眠り続ける僕を見かねて、誰かが起こしてくれたのでしょう。


 なら、それが何者にせよ、お礼を言わねばなりませんね。


 僕はアラームを止めて立ち上がり、振り返ります。

 目に入ったのは、随分と彩度が低く、そして珍しいシルエットをした青年の姿でした。

 灰紫はいむらさきの両目に、白くて細い頬に、白くて長い髪。着込んだカットソーとコートはお葬式じみて真っ黒。


 そして、それから、白い骨。


 上半身は人間のようですが、カットソーの裾から伸びているのは人間の下半身ではなく、六メートルほどもある大蛇の骨でした。半人半蛇かつ、半スケルトン。筋肉も血管も神経すらない背骨と肋骨が、港を固めたコンクリートの上に波打っています。

 

 やはり見知らぬあやかしさんです。

 島外からのお客様でしょう。


 ……もっと驚くべきなんでしょうが、この頭は、目が覚めたところで度を超えて・・・・・呑気のんきなままでした。

 僕は他人ひとより多くのものを見る眼を擦り、三重に巻いたマフラーを整えて、頭を下げます。


「ありがとうございます」

「どういたしまして」


 あやかしさんは見た目に反して穏やかに応じてくれました。独特の掠れた響きは、剥き出しの背骨やがらんどうの腹に音が抜けていくためかも知れません。

 会話に適した距離を探ってか、彼は胴を揺すり、少しだけ後ずさります。

 腹の鱗がないものだから、その動きはよたよたと長身を持て余し、蛇の滑らかさとは程遠いものです。

 下肢機能障害。

 を、思い起こさせる所作。

 ……超常の存在へ安易に情けをかけるなと、警告する民話や伝説は多くありますが……。


「架け橋がご入用ですか」


 僕は、つい訊ねていました。


「橋?」

「船に乗り降りするのが、難儀ではありませんか。移動式のタラップならお貸しできますよ。スロープ型の」


 言い足した僕の前で、あやかしさんは紫の眼を零れ落ちんばかりに見開きました。


「それを、私に?」 


 呟いてから、自分の聞いた言葉を確かめるように大きく瞬きます。睫毛がこれほど白いと、こんな曇天でも目元に光が散るのですね。


「ええ。必要でしたら」

「私は自力で海を渡れるので問題は無いが……。まさか君には、私の本当の姿が見えているのか」

「背骨と肋骨がたくさんの、でしたら」

「……物怖じのない子だな」


 驚愕を飲み込み終えたのか、彼は微笑んで、目を細めました。それがあまりに眩いものでも見るような顔だったので、僕は気軽な言葉では返事ができなくて、黙って頷きました。

 あやかしさんは少し胴を倒し、小柄な僕に視線を合わせます。


「私の名はヤガイという。夜の蓋と書いて夜蓋だ。君は?」

「鳴仙リッカ。片仮名でリッカです」

「では、リッカ。あやかしを見る君に教えてほしい。この島に『人魚』がいるという話を聞いたのだが、真実だろうか?」


 うわ。

 白い喉からクソみたいな呼称が。


 何やら神妙になっていた気分が吹き飛びました。そのまま「知りません」と吐き捨てそうになりましたが、耐えます。僕に親切心で声をかけてくれた方に不義理をしてはいけない。

 僕は気分の悪さを抑えて答えました。


「それはたぶん、由希──僕の、兄のことです」


 『兄』と発音すると、厳重に巻いたマフラーの下で、喉の皮膚がひりつくような不快感がありました。古傷の痛みを掻き消したくて、僕は早口で続けます。


「ここにあやかしさんはいませんよ。『人魚』というのは島の方言みたいなものです。生まれつき脚が悪かったり・・・・・・・、肌に特異がある人をそう呼ぶんです。ちなみに蔑称じゃなくて尊称ですが。それで……由希に、会いたいですか?」


 どうかNOとお答えくださいと祈りつつ、あえて嫌そうに訊ねました。


「僕は、あいつ、嫌いですけど」


 ダメ押しに付け加えると、夜蓋さんは「いや」と首を振ります。


「遠慮しておく。私のような者が人間ひとをみだりに訪ねるものではないよ。……話を聞かせてくれて、ありがとう」


 夜蓋さんはそう言って、会話を終える合図をくれました。名残惜しむように尾骨が僕の足元へ回されて、かかとに触れ、すぐに離れました。


「縁があれば、いつか、また」

「はい」


 頷いた僕に、彼はざらりとコンクリートを擦って身を引きます。

 こちらを見送ろうと微笑む、白い顔。それを数秒眺めたのち、僕は撫でられたきびすを返して桟橋へ向かいました。

 船は、ちょうど着岸を終えたところでした。船長は島の人間ですから、僕と目が合うなり嫌そうに顔をしかめます。僕はにこやかに手など振っておきました。


 さて。

 鳴仙島は人口が百を超えない小さな島ですが、最近はちらほらと観光客が来ます。複数の歌手や作曲家を輩出した、一種のパワースポットなのです。

 船からは三人のお客さんが降りてきました。

 バンギャっぽい服装の、金髪とピンク髪の若い女性が一人ずつ。そしてスーツ姿に黒い革靴の青年が一人。

 ピンク髪さんは予定でも確認するのか、こちらへ歩みながら手帳を取り出します。

 派手な手帳にはペンが一本掛けられていました。彼女のファッションとはテイストの違う、シンプルに黒い軸の万年筆です。


 それは、ちょっとまずいのでは?


「あの」


 発しようとした警告が強風に遮られます。

 この時期この時間に吹く、地元民の僕にとってはよく知れた、観光客の彼女たちには不意打ちの突風です。

 風圧に耐えようと身体を縮こめた女性の手から手帳が飛ばされ、万年筆ごと、海へ。


 青年が、あ、と絶望的な声を漏らします。


 僕は反射的に飛び出していました。

 荷物を放り出し、目一杯に伸ばした腕の先でギリギリ手帳を掴みます。もちろん万年筆ごとです。良し。いや良くない。

 足が、桟橋から、離れます。

 傾く身体。

 すぅっと迫ってくる海面。

 でも別に強張らない僕の身体。


 ……ミイラ取りがミイラになるだけでは、馬鹿らしいですね。


 気合で半身を捻り、持ち主の女性へ向けて万年筆と手帳を投げます。脇腹の筋肉がプツリと痛む。ピンク髪さんは驚きながらも、自分の持ち物を両手でしっかり受け止めました。


 良かった。


 今度こそ安堵しながら、僕は海面に叩き付けられます。

 冷たい。

 痛い。

 落ちた勢いで全身が一気に沈み、息を止めるのが間に合わず僅かに水を飲みました。海中で咳込みそうになるのを、口を押さえて無理矢理に堪えます。コートが波をはらんで押し流される。耳元で泡がゴボゴボ鳴っています。

 なんとか咳を抑えきって、僕は水を掻こうとしました。けれど水温が低すぎるのか、濡れた冬服が重すぎるのか、碌に身体が動かない。コートを脱ぎ捨てようとしますが、指が凍えて、留めたボタンも外せませんでした。

 これは本格的にまずい、ですね。

 酸素が、徐々に、確実に、足りなくなっていくのが分かる。みぞおちで、肺を動かす筋肉が痛み出す。指先はもう痛くない。

 僕は死にそうになっている。


 それなのに。


 この期に及んでなお、僕のこころには、ひとかけらの恐怖も湧いてこない。

 

 手足から力が抜けます。

 首元に纏わり付くマフラーの感触が、すこしだけ鬱陶しい。

 死んだらどうなるのでしょうね。

 どうするのでしょうね。

 僕が死んだら、兄さんは……。


 と。


 誰かに、肩を掴まれました。

 強く引き寄せられ、腰を抱かれて、身体が一気に押し上げられます。海面を割って頭が出ました。


「無事か!?」


 叫んだのは夜蓋さんです。

 あぁ。

 僕は息を吐きました。

 吐こうとしました。


「……?」


 呼気が、喉の奥に詰まります。どうして? 声も出ない。開けた唇がむなしく震えます。僕は大げさにくちをパクパク動かして、夜蓋さんの顔をあおぎました。白いほほがこわばったのが、見えました。


「水を多く飲んだか」


 するどく早い声で聞かれます。僕は首を横へふりました。そんなに、飲んでません。肺をひたすほどは。目の奥が、どくん、どくんと脈を打ちはじめます。苦しい。あたまがチカチカする。

 やがいさんの顔がゆがむ。


「君の喉をひとひら、魚に変える。代わりに喉骨を一グラムもらう」


 そう言って、かれは、ぼくの口に小指をさし入れました。


「受け入れるなら食べてくれ」


 いみがわからない。

 でもわかる。

 たすけようとしてくれてる。

 だからたべます。

 かんで。

 ひきさく。

 ちにくが、とろけて——。

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