第22話



「でももし、もしも、ギイが……、俺のせいで目の前から消えてしまっていたら……」

「後でも追ってくれたか?」

「……かもしれない」

 ぼそりと呟いた真白の言葉に義堂の顔から表情が消えた。涼しげな目元がわずかに細められ、どこか考え込むような、不機嫌な気配が滲む。

「物騒なことを言うな。ほら、俺はこんなに元気だろ? 心配かけたな。で、その袋は何だ?」

 義堂の穏やかな声が、真白の胸の奥に風を通す。

「下の売店で買ってきた。俺の朝メシ」

 そう言いながら、真白は遠慮のない足取りでサイドテーブル横の椅子を引き、どかりと腰を下ろす。

 袋の中から取り出したのは、メロンパンとチョココロネと、三角パックのコーヒー牛乳だった。

「旨そうだな。俺も食べたい」

「ギイにはもうすぐ病院の朝ごはんが来るだろ?」

「そっちを食ってみたい」

「……疲れてるから甘いもの食べたい、とか?」

「そうだ、多分それ。いや、きっとそう」

「もう……、仕方ないなあー」

 真白はそう言って、メロンパンをビニールから取り出して半分にちぎった。ふわふわの中身が露わになり、部屋にほんのりと甘い香りが漂う。

「でも、チョココロネのクリームが多い下の部分は俺が食うから」

 そこには、子供じみた意地のようなものがあって、義堂は思わず吹き出した。

「ずるいな。おいしいとこ独り占めかよ」

「当然だろ? 俺がチョココロネ滅茶苦茶好きなこと知ってるくせに」

「そうだったな」

「俺の大半は、チョココロネでできている」

 義堂は笑いながら、ちぎられたメロンパンの片方を素直に受け取り、ひと口かじった。生地の甘さがほんのりと口の中に広がる。

「これ、旨いな」

 真白が、膝の上に置いていたレジ袋の底をごそごそと探る。

「……ほら」

 ぽん、とテーブルの上に置かれたのは、缶コーヒーだった。

「買っといた。いつも朝食後に飲むだろ」

 ぶっきらぼうに言うその言葉の奥に、ほんの少しだけ照れがにじむ。

 義堂はその缶を手に取ったあと、ラベルに目を落とし、一瞬、戸惑うように微笑んだ。ほんのわずかなひととき、缶をながめる義堂の前に、真白の白い手がすっと伸びてくる。

「大丈夫って言いつつ、実は、指とか痛いんだろ? やせ我慢しなくていいんだよ、ギイ兄ちゃん」

 そう言って、真白は義堂から缶を奪うと、慣れた手つきでプルタブを引いた。ぷしゅっと、乾いた音が小さく響く。

「必死にオール漕いでくれたもんな」

 真白は開けた缶を、そっと義堂に差し出した。

 義堂は一瞬だけその手元を見つめ、それから穏やかな笑みと共に、缶を受け取る。

「……ありがとう」

「別に」

 真白は既にメロンパンを食べ終え、次にチョココロネをかじりながら、視線を病室の窓の外にやった。カーテン越しに射す光が、二人の穏やかな時間をゆっくりと包んでいる。

 義堂はひと口、ゆっくりと喉を潤したあと、少しだけ首を傾けて言った。

「退院、今日になった。十時にナースステーションに行けば手続きしてくれるって、先生が」

 コーヒーの香りと共にこぼれたその言葉に、真白の手が止まる。

 チョココロネをくわえたまま、目をぱちくりさせ、それから口元をゆるませて笑った。

「……マジで? もう大丈夫なの?」

「もうとっくに大丈夫だよ。ほら、顔色もいいだろ?」

「う、うん……」

 安堵と喜びが混じった真白の声が、ぽつんと落ちた。

「よかった」

 真白はコロネを片手に、どこか力の抜けたような笑顔を浮かべている。

 その顔を見て、義堂はふっと優しく目を細めた。

 少し照れたように、けれどどこか自嘲気味な口調で、真白が言う。

「……昨日はさ、俺、濡れてたから着替えも病院の人に借りて、ここに泊らせてもらったけど、今夜、一人で屋敷に戻るの、ちょっと無理で」

「ああ。それもあって、今日、退院させてもらうことにした」

「そうだったのか……。何から何まで、ありがとうギイ」

 ふたりの間に、ほんの短い沈黙が落ちた。病室の外では、どこかで車椅子の音がかすかに響いている。

「……一応、父さんと母さんにも連絡した、昨晩のうちに。そしたら、今夜にはこっちに来るって」

「そうか。それなら、夕方までは俺とゆっくりしてくれるか?」

「もちろん!」

 真白の返事は早かった。それから、もう一度義堂の方を見て今度はまっすぐな笑顔を見せた。


 窓の外では、蝉がひときわ強く鳴いている。

 それが夏の空気を押し広げるように響いて、病室の静寂をやさしく揺らす。

 あの館の不穏な夢のような空気は、今はもう、ここにはなかった。



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