第16話
◇
青年が、ゆっくりと立ち上がり、義堂のほうへと振り返る。
「……誰だい、君は? 呼んでいないよ」
創一の声は、穏やかだった。しかし、その直後、バリバリと激しい音を立てて床が軋んだ。
重力が反転したかのような感覚。それと共に、義堂の身体は部屋の中に引き込まれていた。
「ふっざけんな……!」
怒声と共に、義堂の拳がしなるように放たれる。
狙いは正確だった。グシャリ、と肉が潰れるような鈍い音がして、創一の左頬に義堂の拳が深く食い込む。
直後、創一の頭部がぐらりと傾き、顔が傾いたまま半回転して後頭部の位置で止まった。
だがそれは、終わりではなかった。
一拍置いてから、まるで壊れた人形のように、
ぎぎっ、という軋んだ音とともに、皮膚の下で骨がゴキリと鳴った。
回転するにつれ、顎の関節が一瞬外れたように歪み、口元が横に裂けかけるが、それすら徐々に元の位置へと収束していく。
やがて、ぐるりと一周した創一の顔が、正面に戻ってきた。
目の前でそれを見た義堂は、背中を這い上がる冷たいものに思わず息を呑み寒気を覚えた。
創一と目が合う。
笑っていた。
その顔は、まるで何事もなかったかのようにひどく整っており、口元だけがゆっくりと動いた。
「痛いなあ。君は乱暴だな」
創一は自分の顎に手を添え、首をほんの少し傾けて顎の骨格を確かめるように指先でカクカクと動かすと、すっと唇の端を長くて白い指でなぞった。
義堂の濡れた服からぽたり、と水が床に垂れた。
「先に手ぇ出してきたのは、てめぇだろうが。……しかも、これが二度目だ。湖の中で俺の足を掴んだのはてめぇだな」
義堂の声はかすれ気味だった。しかし、怒気を孕んだその言葉は、空気に吸われるようにすぐに消えた。
創一は微笑んだまま、何も言わずただ片手を持ち上げた。その指先が、ゆるやかに
それだけで、義堂の身体はふわりと宙に浮いていた。
床から足が離れたそのとき、背中が何か硬いものにぶつかった――。ぐしゃり、といういやな音を立てて、義堂の身体がテーブルの上に叩きつけられる。家具の脚がきしみ、嫌な音を立てて崩れた。
「……っ、く、そ……」
空気が肺から無理やり吐き出される。
息を吸いこむたびに、わき腹と胸が割れるように痛んだ。あばらの数本が逝ったかもしれない。
それでも、動かなければならなかった。ここにいてはいけない。何かが、明らかに狂っている。
義堂は床に手をつき、体を起こす。視界の端で、天井がわずかに歪んで見えた。目の奥がちかちかと痛み、吐き気が喉の奥にひっかかる。けれど、意識はまだ、かろうじて繋がっている。
「この程度の……こと、で……」
痛みを無理やり押し込み、義堂は歯を食いしばった。逃げる理由が、今はまだ、ない。いや――逃がすわけにはいかない。
ふらつく脚を制しながら立ち上がろうとした瞬間、足元に転がっていた黒光りするものに気づいた。
暖炉の前に置かれていた
義堂はそれを拾い上げた。手のひらにひんやりと冷たい質感が張りつく。尖った先端が、煤けた鈍色の牙のように見えた。
そして、ひと呼吸ののち――、義堂は吼えるように叫びながら創一へと踏み込んだ。
「……っざけんなよ、てめぇ……!」
火かき棒の尖端が、低く構えた義堂の手から、鋭く突き出される。狙いは、創一の胸。
ザクリ、と嫌な音がした。
◇
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