第13話



 昼が近づき、台所の時計が十一時半を指していた。

 ロゴ入りのTシャツに膝上丈のバギーショーツ、素足という夏の定番ともいえる格好で、義堂ぎどうは冷蔵庫の扉を閉めながら、ふと階上を見上げた。

「……起きてきてもいい頃だけどな」


 昨夜の真白は表情も明るく、声に張りが戻っていた。心配していた体調も回復しつつあるように見え、義堂はほっと胸をなで下ろす。

 夏休み中の寝坊くらい、いつものことだ。今日はきっと昼過ぎまでぐっすり眠るだろう、と義堂は思っていた。

 しかし、あの女将の話にあった湖の逸話は、今思えば妙に引っかかる――。

「ま、そろそろ降りて来るだろう……」

 そうつぶやきながら冷凍庫を開けかけた義堂の足が、ふと止まった。


 ――ぴちゃっ。


 床に何かが落ちたような音がした。

「……ん?」

 視線を落とすと、二階へと続く廊下に薄く水たまりができている。上を見やれば、天井からの水漏れではない。

 じゃあ、どこから――?

 嫌な予感がして、義堂はスリッパを濡らしながら階段を駆け上がった。木の段差がしっとりと湿っていて、踏むたびにぴしりぴしりと不快な音を立てた。

 真白の部屋の前で、またぴちゃ、と水音が響いた。扉の下の隙間から、水がじわじわと滲み出している。義堂は思わず膝をつき、手で触れてみた。

 間違いない。冷たい水が確かに部屋の中から漏れ出しているのだ。

 ありえない。昨夜も、今朝起きたときも何の異常もなかった。外はカンカン照りだ。水回りはこの部屋にはない。


「……真白?」

 何度かノックしても、返事はなかった。

 もっと強く叩いても、中からは何の気配も感じられない。

「おい、真白! 開けろ! 聞こえてるか!?」

 声が、思わず強くなる。それでも返事がない。

 ノブを握って回そうとするが、扉はびくともしなかった。鍵がかかっているのではない。

 心臓に冷たいものが走り抜けた義堂は、逡巡の末にドアノブをつかみ、身体ごとぶつかっていった。 しかし、何かが内側から圧をかけているかのように動かない。

「……ふっざけんなよ!!」

 義堂は扉に背を向け、走った。

 ほとんど飛ぶようにして階段をくだり、土間に降りる。

「くっそ!」

 スポーツサンダルを無造作に突っかけ、納戸へと走った。戸を乱暴に開け放つと、壁に立て掛けられた古びた斧が目に入ってくる。義堂はすみやかにそれを掴んでそのまま母屋に戻り、土足で再び階段を駆け上がった。


 水に濡れた廊下を踏みしめ、靴音を響かせながら戻ってきた彼は、一言も発さず真白の部屋の前に立ち尽くした。

 肩が大きく上下し、荒い呼吸が胸の奥から漏れ出す。

 そして、息を深く吸い込み、斧を振り上げた。



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