第9話



 一瞬、自分のことを呼ばれたのだとは思えず、真白は返事をするのが遅れた。

 けれど次の瞬間には、その名が、確かにこの場にいるへ向けられたものであることを、心の中で、なぜか疑いようもなく理解していた。

 青年のまなざしが、ふと緩む。

 煙草を手に、蝋燭の灯りに頬を照らされながら、彼は言った。

「……また来てくれるなんて思わなかった。また会えるなんて思ってもみなかった」

 真白は、どう答えたらよいのかわからず、けれども自然に口が動いていた。

「……久しぶり、って、言うべき……なのかな?」

「うん。久しぶり。僕にはもう、どれくらい時が経ったのかわからないけれど……」

 空恐ろしいほど美しい青年の笑みには、かすかな痛みのようなものがあった。

「座って」

 青年は、煙草をゆるやかにくゆらせたまま灰皿に置いた。赤い火はまだかすかに灯っている。

 促された真白がソファに腰を下ろす。ふかりと身体が沈み込む感触は、現実と変わらない。

「まだ手を付けていないんだ。熱くはないけれど、香りだけは、覚えているはず」

 湯気の立たない紅茶のカップを青年がそっと差し出す。

 カミツレカモミールのほのかな香りが、真白の鼻腔をくすぐった。

「この香り……」

 どこで感じたのか思い出せないまま、ただ、胸の奥のやわらかな部分がじんわりと熱くなる。

 真白はカップを口元へ運び、一口、口に含んだ。ぬるんだ液体が喉を滑り降りるとともに、ふいに涙腺がじんと熱くなる。

 思い出せないはずの記憶の端っこに、そっと指が触れたような気がした。

「白斗くん。君が来てくれる夢を、何度も何度も見たんだ。もう会えないと思ってたから……。本当に、嬉しい」

 そう言って青年は微笑んだ。


 その声が真白の耳にやさしく流れ込んでくるたびに、自分が誰なのかが少しだけ曖昧になっていく。

 真白という名前の重みが、薄紙のように剥がれはじめているような感覚――。だけど、それを恐れてはいなかった。


「俺は……」

 何かを言おうとした真白の言葉が、そこでふと止まった。

 青年が、まるで過去に戻ったような声で、ゆっくりと語り出したからだった。

「……あの夜のこと、覚えてるかい? 君が戦地へ行く前の日。ここで言ってくれたことを」

 真白は黙って首を振る。

 言っていない。自分は何も知らない――、そう思うのに、心のでこかで懐かしさがざわつく。

「……もしも帰って来ることができたなら、必ず会いに来るって、君は言った」

 青年はそう言って、目を伏せた。

「僕はここに残るしかなかった。子供の頃の事故で足を悪くしているからね。歩くことはできても、走れない。徴兵検査では、それだけで不合格だった。……戦える身体じゃないって。あの夜から、ここで絵を描いていたよ。いつか君が「ただいま」ってドアを開ける日を夢を見ながら」


 青年は、ずっと待っていたのだ。何十年もの時を。

 そして今、自分に祖父の姿を見て――、その続きを、ようやく紡ぎ出そうとしている。


 真白の喉の奥で、熱い何かがこみあげる。けれどそれが借りものの記憶なのか、なんなのか、自分でも判別がつかない。

「……なのに、君が戦地で亡くなったって知らせが届いた。あれからしばらく、僕は……、自分を見失っていたんだ。君がもう二度と戻らないなら、僕がこの世界に存在する意味なんてこれっぽっちもないと、本気で思った。思って……、」


 ――僕は館に火を放ってから、湖に……。


「……え?」


 不意に言葉が途切れたせいか、それとも、かすかに聞こえた言葉があまりにも現実離れしていたせいか、真白は思わず聞き返してしまった。

 けれど青年は、そのまま小さくかぶりを振って笑い、視線をそらした。

「いや、何でもない。冗談だよ。――館はこうして今もここにある。僕もここに居る」

 青年は息を吸って、真白をまっすぐに見つめた。

「そして、は、やっと帰って来てくれた」



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