第19話: 死者の行進

そして──その一言が、今もなお耳の奥で【反響】(ひび)いていた。

エイギス……アギス? 人の名前? それとも称号?

あるいは、言葉すら交わせなかった誰かの【記憶】(のこしもの)だろうか。


もしそうなら──

この刀を、あの冷えきった体から持ち去った俺は、

……ただの【盗人】(ぬすっと)だ。


でも……もう、どうでもいいかもしれない。

彼はもう【死者】(いないひと)だ。

そして俺は、まだ【生者】(いきてるもの)だ。


それだけで──いい。


牧場までの道のりは、決して平坦じゃなかった。

またしても現れた大型犬たちが、行く手を阻んでくる。

……が、フェイはまるで【蚊】(とるにたらぬもの)でも追い払うように、

一振りで片づけていった。


シュパッ、ズバッ、スパァッ!!


彼女の刀が風を裂くたびに、

犬たちは音も立てず、抵抗もせず、

まるで【意味のない存在】(むなしいいのち)だったかのように、次々と崩れ落ちていく。


空はますます【濁】(にご)り、

滲むような橙の光が、地平線に沈んでいった。


──夕暮れは、静かに【夜】(おわり)に【譲渡】(ゆず)された。


やがて──

視界の奥に、巨大な建物が現れた。


馬牧場だ。


……だが、予想通りだった。

その周囲には、またしても犬の群れが嗅ぎ回り、

フェンスを取り囲み、まるで【地獄の門番】(けもののさばき)でもあるかのように吠えていた。


もう、迷っている時間なんてなかった。

夜になる前に突入しなければ、

──俺たちが【餌】(えもの)になる。


古傷が、ズキン……と疼いた。

それが寒さのせいなのか、

それとも……【恐怖】(おもいで)なのかは分からなかった。


「お前たち三人はここで待機だ」

ロビーの声は、鋼のように冷たく鋭かった。

「フェイもだ。道は俺たちで開ける。ハルカ!」


「了解、キャプテン」


──その瞬間。

ハルカは風のように駆け出し、


シュンッ、シャキンッ、ズバァッ!!


一瞬で左右に刃を振るい、犬の首を次々と【断】(た)ち切っていった。

夕暮れに煌めくその血飛沫は、まるで紅の弧を描く芸術だった。


……彼女はもう人間ではない。

フェイと同じ【異質】(ひとならざるもの)。

いや──それ以上の【狂気】(くるい)だ。


──その時、

反対側から、地面を踏み砕くような【重音】(あしおと)が響いた。


グラァ……ズシンッ……


角を持つ巨大な【獣影】(けもの)が現れた。

──ミノタウロスだ。


蒸気を吐き出しながら膨れ上がったその肉体は、

まさに【災厄の塊】(わざわいそのもの)だった。


だが、ロビーは微動だにしなかった。

いや──彼は待っていた。


その一瞬を。


ミノタウロスが目前に迫ったその刹那、

ロビーは両手の武器を構え、

一つを投げ槍のように──


ドシュッ!!!


それは、獣の喉元に突き刺さった!

次の瞬間、彼はその肩に跳び乗り、柄を【握】(つか)み──

ギギ……グリッ……バシュッ!!!


首がねじ切られ、

地面にゴロリと転がった。


……言葉を失った。

彼らは──【人の皮をかぶった怪物】(ひとがたのけもの)だ。


そして道は、開かれた。

俺たちは迷うことなく厩舎へと突入した。


古びた木の扉を開けたその先には──


「──……っ!」


数十頭の馬たちが、そこにいた。

生きている。

立っている。

白い息を吐きながら、こちらを警戒するように見つめている。


信じられなかった。

外の世界は、【毒雨】(どくのあめ)と【瓦礫】(がれき)と【絶望】(まっくら)で溢れているというのに──

この馬たちは、生き残っていたのだ。


だが──その感動は束の間だった。

すぐに【困惑】(とまどい)が訪れた。


「どうやって、全部連れていくんだ……?」


「ロープを取れ」ロビーが言う。

「一頭ずつ繋げ。五列。各列八頭から十頭。馬車は牽引用に改造する」


誰も反論しない。

無言で動き始める。


だが、その時だった。


足元が──【揺】(ゆ)れた。


最初はかすかに。

一瞬、地震かと思った。


けれど、それは──違った。


ズン……

……ズン……

……ズン……


それは【足音】(くるもの)だった。

とてつもなく、大きな……足音。


体が固まった。

意識が薄くなる。

冷や汗が首を伝う。


ヒヒィンッ! バタバタッ! ガタンッ!


馬たちも暴れ始めた。

彼らも分かっていた。

何かが──来る。

これまでの犬やミノタウロスとは、次元の違う【怪異】(けもの)が。


ドドドドド……ッ!!

ゴゴゴゴゴ……ッ!!


揺れは激しくなる。

誰も、外を覗こうとはしなかった。

フェイでさえも──目を伏せていた。


……見るまでもない。

分かっていた。

それは、【巨獣】(そらをおおうもの)だ。


小さな窓の隙間から、

巨大な【影】(おわりのかげ)が、光を【飲】(のみ)込んでいく。

──まるで空が崩れ落ちたように。


「……灯りを消せ」

ロビーの囁きは、風のようにか細かった。


俺たちは従った。

ギュッ……と、ロープを握りしめる。

震える。息が詰まる。

【死】(し)の文字が、頭の中で何度も回る。


ドシィィィンッ!

ドシィィィンッ!!


厩舎が揺れた。

俺たちは凍りつく。

馬たちでさえ、蹲って動こうとしなかった。


彼らも分かっていた。

それが──【終焉】(しにがみ)だと。


そして、やがて──


……静寂。

……無音。


聞こえるのは、

自分の心臓の音だけだった。


ドクン……ドクン……


……

……


ズゥゥゥゥン……


足音は、遠ざかっていった。

あの【もの】は──ただ、通り過ぎただけだった。


俺たちは、信じられなかった。

誰かがその場に膝をついた。

肩で息をして、身体を震わせていた。


──でも、俺の視界に焼きついたのは……ただ一人。


フェイ。


彼女は、

まるで時間が止まったように、【凍】(こお)っていた。


あの、いつも落ち着いていた手が……今はふるえていた。

ギュッ…ギュルルッ……と、剣のつかを握る音が耳に焼きつく。

構えている。戦う準備はできている――けれど、一歩も動けない。

初めて見た。あの顔に、恐怖こわれという感情が浮かんでいたのを。


そして、来た。

ガアアアアアア――――ッ!!


その**咆哮ほうこう**は、これまでと違った。

より鋭く、より深く、より――**けもの**だった。


ワン、でもなく、キャン、でもない。

これは……**おおかみ**だ。


奴らも……変異へんいした。


どう言葉にしていいかわからない。

この世界に生きるすべての命が、**劣化進化しんか**を強いられているような――

より凶暴に、より恐ろしく、よりやみに似た存在へと。


そして、夜が深くなるにつれ……奴らは増える。


誰も言葉を発しなかった。

ただ黙って、馬の首に縄をくくりつけ続けた。

そして、静かに馬小屋の中で横たわりながら、

「どうか朝が来ますように」と、ただそれだけを祈った。


***


朝は、来た。


スウゥゥゥ……と、**きり**が漂い、

ゾクリ、と骨まで冷える冷気が身体を刺す。

震えながら分厚いジャケットを抱きしめる僕の隣で、

薄っぺらいレインコート姿のフェイは――

まるで気温など存在しないかのような顔をしていた。


外では、ロビーが作業を終えていた。

巨大な馬車ばしゃ。六輪の改造デルマン。

まるで昔のピックアップトラックみたいな形をしていて、六頭の馬に引かれていた。

他の小型デルマンも強化され、それぞれ二頭で牽引。


余った馬たちは、縄で一列に並ばされ――

金属の蛇のような行列が完成した。


僕とトニーは、単独の馬にまたがって中央と後方を守る役に就いた。


こうして、出発した。


ガタゴト…ゴトンッ…

しばらくして、不思議な感覚に包まれた。

「……なんだか、普通ふつうの世界みたいだ」と。

ほんの一瞬だけ。


その途中で、奇妙な店の前を通り過ぎた。

僕があの**かたな**を拾った、あの場所――

けれど今、その建物は……ボロボロだった。

ヒビ割れた壁。空っぽの棚。

何もない。まるで最初から存在しなかったみたいに。


だけど、刀だけはここにある。

これは現実だ。夢じゃない。


彼は……もういないのかもしれない。

死んだのかもしれない。

そして僕たちは――走り続ける。


途中、他の生存者たちと出会った。

「乗ってください!」

次々と彼らを車に乗せた。

気がつけば、すべての馬車が満員になっていた。

生きてるなんて思わなかった人たちが、こんなにも――


そして、ついに見えた。


それは「市庁舎しちょうしゃ」じゃなかった。

**要塞ようさい**だった。


巨大な門。監視塔。有刺鉄線。武装した兵士たち。

この世界が変わったことを、まざまざと突きつけてくる構造。


ガガガガッ……

門が開いた。


検査を終えた後、懐かしい顔が迎えてくれた。

リヴァイ。フアン。そして、ゲア。

彼らは生きていた。

その笑顔と抱擁は、まるで失われた時代から届いたまぼろしのようだった。


だが、その時。


現れた、一人の男。

その顔は――見覚えがある。


トニーが小声で囁く。

「……あれ、バンドゥン市の市長さんだよ」


すべてに合点がいった。

この施設の規模、秩序、統率……

ここが“最後の砦”となった理由。


市長はロビーたちを出迎えた。

まるで、**地獄じごくから戻った英雄えいゆう**を見るように。


背後には、警察と自衛隊(インドネシアの軍隊)の幹部たちが並んでいた。


「お帰りなさい、ロビー。君たちが生きていてくれて嬉しい」


「……ああ、ありがとう」


僕は、ただその光景を見ていた。

世界は壊れても、

それでも人は、何かを築こうとしている。


けれど――現実リアルは甘くなかった。


届いた情報によると、バンドゥンで生き残った人間は……たった5%。

そのうち、この施設までたどり着けたのは、**さらにその半分以下2%**だけ。


残りは……行方不明。

あるいは、**しかばね**となった。


この世界は、もう**終末おわりのふち**にある。


**人類にんるい残滓ざんし**は、今や鋼鉄の壁と、空虚な希望の中に閉じ込められていた。


明るくなり始めた空を見上げた。

けれど、そこに**温もり《ぬくもり》**はなかった。


もしこれが、新たな世界ならば――


僕たちはもう、

**自覚らぬ幽霊ゆうれい**なのかもしれない。


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