第8章。 『満月の下で明かされる真実…』(第1部)

天宮・翔あまみや・しょう  

相沢・小百合あいざわ・さゆり  

佐伯・健三さえき・けんぞう  

佐伯・乃亜さえき・のあ  

渋木・命しぶき・みこと  

渋木・廉次郎しぶき・れんじろう 

藤川・雅人 ふじかわ・まさと  

谷口・健太郎たにぐち・けんたろう  

金田・功かねだ・いさお  

月城つきしろ  

龍炎会りゅうえんかい   

荒鷲会 あらわしかい  

月輪教団がちりんきょうだん 

氷の道こうりのみち


六甲山・神戸。【相沢小百合の視点】

2016年11月7日・午後8時。


新開地は、秋の夜特有の匂いで満ちていた。湿った空気、屋台から漂う揚げ物の香り、そして港の方角から風に乗ってくる、どこか金属めいた匂い。

橙色の街灯が濡れた歩道を照らし、長く伸びた影が満月の冷たく澄んだ光と交じり合っていた。

その月――巨大で、屋根の上に吊るされたように、落ち着き払った不気味な静けさで私たちを見下ろしている。

繁華街の夜は脈打つように活気づいていた。笑い声、早足の靴音、たこ焼きの油が弾ける音……

だが、私の胃の奥では、解けない結び目のような緊張が少しずつ膨らんでいた。

佐伯さんが、作戦に使う二台の黒い車のうちの一台を指差した。

あの人は、張り詰めた空気の中でも、場数を踏んできた者だけが持つ落ち着いた姿勢を崩さない。

アスタロトは数歩後ろを歩き、手を左右に揺らしながらまるで遊んでいるかのようで、あの半笑いが、嘲笑なのか癖なのか、未だに判断がつかない。

「さあ、時間を無駄にするな…」

佐伯さんが運転席のドアを開けた。

私は助手席に乗り込む。アスタロトは後部座席に、佐伯さんの部下と並んで座った。運転席にいたのは佐伯さん本人だった。

そこから見えたのは、翔さん、乃亜、藤川さん、そしてもう一人の同行者が乗ったもう一台の車が、堺方面へと向かう姿だった。

新開地を離れ、西神・山手通りへ入り、阪神高速神戸線3号へと東進する。その後、深江の入口から山道へと入って六甲ドライブウェイを登る――岩肌の稜線へ向かう道だ。地図の上では短い行程に見えるが、実際には30分はかかるだろう。

都市部の渋滞とネオンを抜けると、車内に響くのはエンジン音だけになった。

満月がフロントガラスに映り、その大きさと輝きは、山の闇へと進むごとに増していく。

――『翔…大丈夫かしら。命さんを救うため、冷静さを保てるの?』

あの人が理性を失った過去の光景が頭をよぎった。あの神父に襲われそうになった時、そして藤川さんの家で……私は表情に出さないよう努めたが、窓に映る自分の顔は、心のざわめきを隠しきれていなかった。

「小百合さん、大丈夫ですよ。翔くんは無茶はしません…乃亜ちゃんが一緒にいれば」

沈黙を破ったのは、佐伯さんの落ち着いた声だった。

「……乃亜?」

私の声は、好奇心というより、わずかな疑念を帯びていた。

佐伯さんは視線を前に向けたまま、静かにうなずく。

「5年前、翔くんは私の娘を非常に危険な状況から救ってくれたんです」

私は思わず背筋を正した。

「俺たちは…同じ『荒鷲会』の人間です」

その名は私にとって聞き覚えのないものだったが、響きからして、ヤクザの組織であることは容易に察せられた。

「ある時、敵対組織が乃亜ちゃんを誘拐したんです。当時、彼女はヤクザとは全く関係のない立場でした。俺は…組の面子と自分の立場から、助けを借りずに救い出そうとした。しかし、相手を甘く見ていた……結果、重傷を負い、本気で死を覚悟しました」

その声には、芝居がかった抑揚はなく、まるで避けられない出来事を淡々と述べるかのような冷たさがあった。

「……それで、どうなったんですか?」

「翔くんは俺の見習い――他所で言えば後輩のような存在でした」佐伯さんは続ける。

「何かを察して、数人の仲間と共に俺を追ってきたんです。現場に着いた時には、そこはもう惨状だった……血の匂い、静まり返った空間。俺は意識を失いかけ、出血も酷かった。その時、翔くんに頼んだんです。俺がもう駄目なら、乃亜ちゃんを守ってくれと。俺たちの世界では、一度交わした言葉は何よりも重い」

窓ガラスに映る満月の反射を見つめながら、私は息を呑んだ。その約束が、多くのことを説明していた。

「ほぼ不可能な状況だったにもかかわらず、翔くんは乃亜ちゃんを救い出し、さらに俺の命も救ってくれた。それ以来、二人が会うことはなかったが、彼はずっとその約束を守っている。俺は家族のために引退を願い出たが、今でも外から協力しているんです」

「でも……翔さんは、もうその世界とは関係ないって…」

私は視線を道路から外さずに言った。

佐伯さんは短く、乾いた笑いを漏らす。

「母親が亡くなってから、翔くんは『もうこの世界とは関わらない』と言いました。守れなかったことを悔やんでいるんです……でもね、この世界に一度足を踏み入れたら、そう簡単には抜けられない。出口は二つしかない。死ぬか……全員を裏切るか。彼が生きている限り、翔くんは俺たちの一員なんです。本人がどう思おうと……そして、彼もそれを分かっている」

その瞬間、全てが繋がった。

だから彼は警察に近づかない。だから、私の世界と彼の世界の間には、いつも見えない壁があった。だから、佐伯さんはいつも彼を助ける――

「なるほど……だからあの女は彼に近づいているのか……そして渋木廉次郎が、翔さんが探偵事務所の話をした時に笑った理由も」

翔さんとの会話を思い返す。これまで見過ごしてきた些細な仕草や視線が、次々と意味を持ちはじめる。

――私と彼の世界は、別々じゃない。同じコインの表と裏なんだ。

それでも、翔さんのことを何も知らなかった自分が情けなくて、表情に出てしまっていたのだろう。

「まあまあ……落ち込むことはないですよ、小百合ちゃん。まだ知り合って二週間でしょう?これから、あんたの大好きな翔さんのこと、もっと分かってくるさ…」

アスタロトが皮肉げな調子で言ったが、不思議と毒気はなかった。

思わず、私は微笑んでしまった。今だけは、それが単なるからかいではないと分かったから。

阪神高速を降り、表六甲ドライブウェイへ入る分岐が見えてきた。トンネルの強いライトと、アスファルトに反響するタイヤの音が、上り坂へ入る直前の最後の直線を彩る。

遠くに神戸の光が小さく滲み、暗い山影が眼前にそびえていた。

その時、アスタロトが再び車内の沈黙を破った。

「ねぇ……入口でちょっと停まってくれない?ゴミを拾っていくから」

「……は?冗談言ってる場合じゃないでしょう」

私はすぐに反論する。

「信じてよ。後悔はさせない。このゴミは、役に立つかもしれないから……ふふふ」

佐伯さんが口を挟み、承諾した。どうせ本番は港だ。少しくらいなら――そう判断したのだろう。

六甲ドライブウェイの入口に、小さな停車スペースが現れる。金属製のガードレールが月光を反射し、交通標識が無機質に立っている。空気は冷たく湿り、土と森の匂いが混ざって鼻を刺した。低地には薄い霧が、這うように漂っている。

そこに――ガードレールに背を預け、煙草をくゆらす黒づくめの男がいた。

顔は影に隠れ、ニット帽をまくり上げて煙草を咥えている。

一瞬、敵かと思った。だが、アスタロトが窓を下げ、軽く手招きをした。

「……これが拾いに来たゴミよ。ほら、挨拶して」

男はニット帽を脱ぎ、わずかに引きつった笑みを見せた。

「こんばんは、小百合さん……」

「……え?谷口さん?」思わず声が上ずる。

「長い話になる……それは後で。今はとりあえず、乗ってくれ。すぐ後ろについてきな」

彼はそう言って、近くの駐車スペースに停められた自分の車を指差した。

再びエンジンが唸りを上げる。目の前には、山の闇へと続く道が伸びていた。

山の夜は、街の夜とは違う静けさを持っている。

都会では、騒音が光やエンジン音の層の下に隠れている。だがここでは、静けさそのものが呼吸し、こちらを見つめ返してくるようだった。

谷口さんは何も言わずに自分の車へ戻った。

ライトを二度点滅させる――無言の合図だ。

先導を取るように走り出し、佐伯さんがその後ろにつく。

一瞬で、簡易な車列が出来上がった。

「……追うべきじゃない。あいつは誘拐犯側の人間よ」

それは自分に言い聞かせるような呟きだった。

頭の中で、言葉はさらに続く――腐った警官、月輪教団と繋がっている……そして、アスタロトとは一体どういう関係なのか。

「落ち着きなさい……ご主人様を信じなさい。そのうち理由が分かるわ。それに、彼はこの山を誰よりも知ってる。無駄に時間をかけずに済む」

アスタロトの声は相変わらず余裕に満ち、柔らかな皮肉が混じっていた。

納得はできない。だが、反論する材料もなかった。

私は小さく息を吐き、沈黙のまま受け入れた。

六甲ドライブウェイのアスファルトは、夜の中で灰色のリボンのように延び、月光を受けたガードレールがその両脇で鈍く光っていた。

佐伯さんは、谷口さんの車と一定の距離を保つ。急なカーブが続くこの道では、一瞬の油断が命取りになる。

低地では霧が路面を這うように広がり、ゆっくりと登ってきては、道を飲み込もうとしていた。

エンジンが足元で唸り、風がミラーを叩くように乾いた音を立てる。

車内には、湿った土と森の匂い、そしてわずかな金属臭が混ざって漂っていた。

私は窓の外を見つめる。

ヘッドライトに照らされた木々の影が、歪んでは形を変えて流れていく。

だが、アスタロトは前ではなく後ろを見ていた。

後部ガラス越しに、何か……あるいは誰かを探しているように。

「……やっぱり、どうして彼について行くのか分からない」

沈黙を破った言葉に、佐伯さんは何も答えなかった。ハンドルを握る手の力だけが、その意思を示していた。

「心配しないで。ひとつだけ教えてあげる。健太郎くんは、あの夜の彼とはもう違う。信じられないなら……触ってみなさい」

アスタロトが、私の『レジデュアル・エコー』の力を示唆する。

私は驚いて彼女を見る。

「……まさか、彼も……」

アスタロトは、何かを隠すようなあの半笑いでうなずいた。

「そうよ。言ったでしょう?たまには手助けしてあげるって。感謝しなさい……ふふふ」

彼女の言葉は私の口を閉ざしたが、同時に別の深い疑問を開いた。

――なぜ、そんなことをするのか。

彼女が無償で何かをするとは思えない。

もし谷口さんがアスタロトの支配下にあるなら、そこにはもっと大きな理由があるはずだ。

そして、もしアスタロト自身に触れたら……最近の彼女の過去をエコーで見ることができるのだろうか。

橙色の点滅が、思考を中断させた。

谷口さんがウインカーを出し、脇道へと逸れる。

本道を外れ、北へ――有馬温泉方面へ向かっている。

数分後、さらに別の道へ入った。

古い『氷の道』。

舗装はひび割れ、落ち葉に覆われている。

錆びついた標識は傾き、まるで山が押し出しているかのようだった。

枝葉が車体をかすめ、金属を引っ掻くようなざらついた音を立てる。

ここは、人通りなどほとんどない道だ。

――一体どこへ連れて行くつもりなのか。

考えは自然に形を取った。

谷口さんは、月輪教団が儀式を行う場所を知っており、そこへ案内しているのではないか。

だが、儀式は未明に行われるはずで、教団も龍炎会も港にいるはずでは……?

谷口さんの車が減速し、小さな広場で停車した。ここが車で行ける最終地点らしい。

彼は窓を開け、アスタロトを見て言った。

「ここから先は徒歩だ。場所はすぐそこだ」

その視線のやり取りに、胃がきゅっと縮む。

――アスタロトが私たちを売った。

最初に浮かんだのは、その考えだった。

「見回りだけなのに、必要ないでしょう」

そう言いながらも、声色には注意を払った。

「行くぞ。ここまで来たんだ」

佐伯さんが短く切り捨てるように言った。

その声には、長年、人間の本心を読む経験からくる何かがあった。

私にはない感覚――警察官だった私は、目に映る全てを疑う癖が染み付いていた。

結局、私たちは進むことにした。

古木と濃い霧に囲まれた山道は、進むほどに歩みを阻んでくる。

数メートル先、木々の隙間から暖色の光が揺れた――松明の灯りだ。

「待て……あんな所に灯りがあるはずがない。この時間じゃなおさらだ。引き返すぞ」

谷口さんが足を止める。

その瞬間、私の堪忍袋は切れた。

「谷口さん……あんたが何に関わってるか、分かってる。正直に言いなさい。なんで私たちをここへ?罠なの?」

彼は困惑したように私を見返す。

「え?何のことだ、小百合さん?……アスタロトから何も聞いてないのか?」

アスタロトが小さく舌打ちし、苛立ちを隠さずに言う。

「チッ……信じないなら、自分で確かめればいい。触ってみなさい」

私は片方の手袋を外し、手を伸ばした。

「……時計を見せて。袖を上げて」

ジャケットの下に隠れていた時計に触れた瞬間、鮮明な映像が流れ込む――

同じ日の正午。

アスタロトと向かい合って昼食をとる谷口さん。

そこで告げられた、明確な指示。

――『六甲山での巡回は禁止。』

――『万一の交戦時は援護に回ること。』

――『指示には絶対に従うこと。』

……待ち伏せも、裏切りもなかった。

気づかぬうちに溜め込んでいた息を吐き出す。

「……すみません、谷口さん」

そう口にしながらも、状況の全てを理解できたわけではなかった。

佐伯さんは、持参してきた二つの暗視ゴーグルのうち一つを装着し、周囲を見渡した。

彼の言葉によれば、霧の向こうに廃墟と化した神社の姿が浮かび上がったという。

朽ち果てた木製の柱、苔に覆われた石段、傾いた鳥居、草木に呑まれた石灯籠…

広場には、即席の祭壇に五人が縛り付けられていた。

古びた板を組み合わせ、血のような染みがこびりついた台座。それが石のブロックの上に据えられている。

「小百合さん、これを見てくれ」

佐伯さんがゴーグルを差し出す。

私はすぐにそれを装着し、視界を覗き込んだ。

縛られた五人は高校生くらいの少女たちに見えた。距離があって確信は持てなかったが、その中に渋木命の姿があるのを認めた。

「……まさか」

息が詰まる。

「どうした、小百合さん?」

「……計画が完全に崩れた。それだけじゃない……命さんだけじゃない、これは想像以上に最悪だ」

胸の奥に硬い塊が生まれる。

「谷口さん、はっきり言う。渋木命の拉致に加担したのはあんたでしょ。他の子たちの件も関わってるの?」

「……他の子のことは知らない。教団には全国に仲間がいる。きっと他県から連れてきたんだろう」

谷口さんの返事は淡々としていた。

佐伯さんが問う。「どうやってここまで運んだ?」

「有馬温泉と古い氷の道 経由だろう。あそこは誰も見張ってない」

「だが、なんでこんなに早く……警察に渡された情報じゃ、儀式は真夜中を過ぎてからのはずだ」

その瞬間、藤川さんが今朝かけてきた電話を思い出す。

――あの電話が裏目に出た。

直感的にそう思った。

ゴーグル越しに視界を走らせる。

黒いローブにフードを被った教団員たちが円を描き、地面には大きな五芒星。

その中に――かつて中之島事件の際、故・司祭の月城と行動を共にしていた男の姿があった。

顔を直接見たことはなかったが、それでも見間違えるはずがなかった。

そして中央に立つのは、黒い外套の縁に深紅の刺繍を施した男。

儀式用の杖を手に、面頬には能の翁面――石像のように微動だにしない。

「……あれが、そうなのね」

小さく呟く。

だが彼ばかりに気を取られてはいけない。

視線を広げると、広場の縁に武装した影が見えた。

谷口さんが「龍炎会の連中だ。護衛をしてるんだろう」と低く告げる。

背筋に冷たいものが走った。

――翔さんに知らせなきゃ。

ポケットから携帯を取り出す。

画面に表示された時刻は21時15分。しかし、ここでは電波が弱すぎる。

車を停めた場所まで戻ってから連絡するしかなかった。

「小百合さん……気を付けろ。ゴーグルはつけたままでいろ。奴らや龍炎会がどこに潜んでるか分からん」

佐伯さんの声には、いつも以上に鋭さがあった。

私は頷き、足早に戻る。

道中、特に異常は感じなかった……少なくとも目には映らなかった。

だが、本当のところ、私はただ急ぐことしか頭になかった。

――翔さんに、一刻も早く知らせるために。

『……小百合さん?』

「翔さん……計画変更です。すぐ戻ってください」

『……は?』

「今は説明できません。ただ……戻って。あの男がここに来てます。命さんを連れています」

『……ッ!?』

受話口の向こうで、何かが激しくぶつかる音が響いた。

沈黙――重く、緊張を孕んだ空気が流れる。翔さんは何も言わない。

『……分かった。絶対に無茶するな。できるだけ急ぐ。状況は逐一知らせろ』

「……間に合わなければ、私がやります」

決意を込めてそう答えた。

翔さんに頼るだけじゃない。元警察官として、私一人でも動けることを証明しなければならなかった。

通話は短く終わった。

翔さんが堺から戻るには時間がかかる。その間に命さんを救うための策を、この場にいる人員で立てなければならない。

振り返った瞬間――

鼻を刺すタバコの臭いと共に、後ろから伸びてきた手が私の口を塞いだ。

反射的に護身術で振りほどこうとしたが、相手――龍炎会の男――は膝蹴りを何発も叩き込み、肺から空気を奪ってくる。

足元がもつれた、その瞬間。

夜の静寂を破る銃声が響いた。

弾丸は私の頭をかすめ、背後の男の頭蓋を貫いた。

振り返ると、硝煙を漂わせる拳銃を構えた谷口さんが立っていた。

「大丈夫か、小百合さん?」

「……ええ、ありがとう。でも、もう少しであんたに撃たれるところだった」

「俺は昔から射撃が得意でね、へへ……アスタロトに、お前をこっそりつけろって言われてな。結果的に正解だったみたいだ」

「……そうね。運が良かったわ。でも、その一発で状況は悪化した」

「だな……早く動こう。奴らが来る前に」

銃声の残響が森に反響し、闇の中で影がざわめき始める。

地獄の幕開けはすぐそこだった。

だが、私は新たな目標を見失わなかった――命さんと他の少女たちを傷つけられる前に救い出すこと。

――翔さんが到着すれば、きっとこの場所は本物の修羅場になる。

***

六甲山・神戸。【天宮翔の視点】

2016年11月7日 午後10時15分。


俺はハンドルを握る手に力を込め、顎を食いしばった。

時計を見るまでもない――小百合さんからの電話の余韻が、まだ耳の奥で響いている。

アクセルをさらに踏み込み、阪神高速は理由も問わずに距離を呑み込んでいく。

もう失敗した作戦のことなど考えていなかった。頭の中は、ただ一刻も早く辿り着くことだけ。

22時15分、深江入口の標識が視界に入った。

凍えるような風と霧、その下で輝く満月は、漂白剤で洗った銀貨のように冷たかった。

六甲への登りに差し掛かる。息をすることも忘れるほどだった。

こめかみを打つ鼓動は、風のせいだと信じたかった。

後部座席の乃亜は、緊張と不安からか、道中ほとんど口を開かなかった。

――もう子供じゃない。だが、こんな場所に連れてくるべきじゃなかった。

窓にもたれ、小さく身を縮めている姿が視界に入り、その胸の奥のスイッチを押してしまう。押したくなかったはずのスイッチを。

藤川は道中ずっと煙草をくゆらせていた。あの藤川でさえ、この状況には神経を尖らせているのだろう。

もう一人の同乗者――佐伯さんの部下の男――は俺と同じく落ち着いていた。裏社会での長い経験から、こういう場面で何が起こるかを知っているからだ。

前方から視線を外さぬまま、俺は藤川に声をかけた。

「なあ、藤川……着いたら、お前は向こう側につくつもりか?」

龍炎会の人間である藤川が、これから相対するであろう相手の味方をする可能性を考えれば、先に聞き出しておく必要があった。

藤川は肩をすくめ、諦めたように笑った。

「……今、俺の命はその答えにかかってるってわけだな? はは……まあ、ちゃんと払ってくれりゃそれでいいさ」

俺は一度だけ頷いた。それ以上の言葉は要らない。これで藤川は正式に龍炎会を裏切った。

最初のカーブを越え、山道を登っていく。

すると後部座席の乃亜が、小さな声で言った。

「翔兄、見て」

舗道に折れた枝、風に押し寄せられた落ち葉、そして場違いなほど新しい砂利の光――俺は減速し、首をひねって確認した。

……確かに、誰かがつい先ほど本道から外れた跡がある。

左側に続く狭い脇道。

「……奴ら、こっちに行ったかもしれない」

胸の奥で確信が芽生える。

ハンドルを切り、その道へ入った。

古びたアスファルトがタイヤの下で軋み、森の湿った息が窓の隙間から忍び込んでくる。

最初は慎重に、やがて道が許す限りの速度で進む。

フロントガラス越しに、月光が匙ですくったように差し込む。

山肌の上、木々の間から、遠くに橙色の光――車のライトではない、複数の松明の炎が見えた。

「……クソッ、遅かったか」

最悪の想像が頭をよぎる。

次のカーブを曲がった先に、二台の車が停まっていた。

一台は小百合さんたちが乗ってきた車……だが、もう一台は見覚えがない。

考える間もなく、乾いた銃声が夜を裂いた。

弾丸は右前輪を直撃し、タイヤが金属とゴムを吐き出す。

ハンドルが谷底へと引きずろうとする――全身で抑え込み、カウンターを当て、ブレーキを踏む。

車体が横を向き、獣のように喘ぎながら止まった。

「降りろッ!」

声を放つと同時に、足音が迫る。

ヘッドライトが照らす白い光の中、幹と幹の間を影がすり抜けていく。

再び一発、車体の金属を噛む音。

俺たちは反射的にドアの陰へ身を投げた。

他に身を隠す場所はない。次の一撃がどこから来るかも分からない。

乃亜が割れた窓から身を乗り出し、荒い呼吸を漏らす。

その瞬間、奥で閃光が走った。

斜めに走り抜ける影――手には懐中電灯。位置が丸見えだ。

彼女は引き金を絞った。

彼女は緊張していたにもかかわらず、弾は正確に敵を捉えた。

その体は不気味なほど素直に崩れ落ち、仰向けに倒れる。再び、辺りは静寂に包まれた。

遅れて耳に届いたのは、倒れた音でも、次の銃声でもない――彼女が止めてしまった呼吸の音だった。

乃亜は硬直したまま、まだ銃口を上げていた。

俺は彼女を見つめ、一瞬『よくやった』と声をかけそうになった。

だが、自分の初めてを思い出す――手のひらにまとわりつく感触、濃密な沈黙……消えることのない重さ。

そんなものを軽くする言葉なんてない。ただ、動き続けるしかないのだ。

俺は彼女のそばに移動し、肩をつかんで、やや乱暴に引き下ろした。

「考えてる暇はねぇ、動け」

言葉は自然と口を突いて出た。

乃亜は真っ白な場所から戻ってきたみたいに瞬きをし、一度だけ短く頷いて、奥歯を噛み締めた。

「いい、そのまま呼吸を続けろ。落ち着くまでな」

森は三発の銃声と、やけに高く不器用な連射音で答えた。まるで目隠しをしたまま撃っているかのようだ。

これは今始まった戦いじゃない。すでにしばらく続いている――湿った落ち葉の間に散らばった薬きょう、そして空気に漂う火薬の匂いがそれを物語っている。

あの匂い……忘れたくても忘れられない、俺の過去を思い出させる匂いだ。

小百合さんたちの姿は見えない。霧と藪、そして四方八方からの銃撃のせいで、たとえ十メートル先にいても目に入らないだろう。

だが、すぐにわかった。発砲位置の高さも向きもバラバラで、どう見ても単独の部隊じゃない。各自が分断され、下がりながら生き延びている状況だ。

俺は車のフロントから必要最低限だけ顔を出した。

右から左へ、岩肌に沿って移動する龍炎会の構成員が二人。

さらに奥――銃口の閃光で、外周を固めている奴らがいるのがわかった。

奴らは守っているのではなく、上への道を封鎖している。

その先で、あの橙色の光が、不気味に脈打つ心臓のように呼吸している。

つまり――月輪教団がそこにいる。

母を殺した男、俺の復讐相手が目の前にいる。障害さえ抜ければ……。

その瞬間、小百合さんとの約束が脳裏に突き刺さる。

『渋木命の救出が先だ。他はその後……』

それを呪文みたいに繰り返す。

思い出す。電話を切る直前のサユリの言葉――

『……間に合わなければ、私がやります』

ここで銃撃戦を続ければ、彼女が一人で戦う時間が延びる。

だが、強行突破すれば、乃亜を未知の危険に巻き込む。

どちらの約束も破れない、最悪の二択だ。

その時、乃亜が俺の肩を掴んだ。

「翔兄……私も行く。私のことは気にしないで」

その声と表情は、救出に向かう前と同じものだった。

まだ緊張はしているが、呼吸も仕草も、先に進む覚悟を示している。

俺は小さく笑って頷いた。そして、いつも通りの選択をした――前に進む。

「左側を押さえろ。挟み込む奴らはそっちだ」

岩肌の縁を二本の指で示す。

「俺たちは中央を破って道を開ける。もし俺が倒れたら、引き返して停めてある車を奪って逃げろ……俺は誰のヒーローでもねぇ」

俺が言う車とは、この道の終点に見えた二台のことだ。俺たちのは、さっきの銃撃で使い物にならなくなった。

「…はは、そんなもん必要ねぇよ…」

藤川がぼそりと呟き、命を救うこともあるあのカチリという音を響かせながらマガジンを装填した。

佐伯さんの部下の男も、黙ってそれに続いて準備を整える。

こんな状況になっても、未だにそいつの名前を聞いていなかったのが自分でも信じられない。だが、今は自己紹介している場合じゃない。

「乃亜、準備はいいか?」

「いつでも…」

頷く。呼吸を二つ数え、三つ目で立ち上がった。

幹の影から覗いた奴に二発、もう一人を石に向けて撃ち、顔を引っ込めさせる。

「行くぞ!」

俺たちは四メートルほど駆け抜け、反対側の木々に体をぶつけて飛び込んだ。

肩に鈍い痛みが走ったが、無視する。

右手側では乃亜が抑えた動きで銃をリロードし、反対の側からは藤川とあの男の正確で無駄のない連射が続く。

「…その調子だ」心の中で呟いた。

火薬の匂いは古く、まるでここが何時間も射撃場として使われていたかのようだった。

断続的な銃声の隙間に、別の音が混じる。

低くうねるような声――木々の向こう、高い位置から響く、意味の分からない異国の詠唱。

身をわずかに上げて覗くと、橙色の明滅が影の合間に広がり、閉じ、また開いた。

そこには、朽ちかけた古い神社の広場。そして、その狂信者どもの中心に――あいつがいた。

木の幹そのままのような太い杖、縁が深紅の黒いマント、そして能の翁面で覆われた顔。

…間違いない。母さんを殺した、あのクソ野郎だ。

血が沸き立ち、足よりも先に心臓が突っ走ろうとする。

「翔兄…忘れないで、本命を」

背後の木の陰から乃亜の声が飛ぶ。

深く息を吸い、もう一度視線を上げる。

中央の即席の祭壇には、命と数人の少女たちが――存在してはならない何かを養う、暗い核のように――縛られていた。

「…チッ、クソッタレどもが…」小さく吐き捨てる。

空へ向けて撃ちたくなる衝動、名前を叫び駆け寄ってその内臓を引きずり出したい衝動――すべて飲み込む。

俺が属していた組織、荒鷲会で叩き込まれた言葉を思い出す。

――まず一歩、そして一撃。

今の一歩は、周囲の包囲に切れ目を入れること。そのためには、邪魔者を片付けなければならない。

「…今だ」

首の動きだけで合図を送る。乃亜はすぐに察した。

龍炎会の連中は、教団へ通じる最後のルートを固めていた。

どう切り開くか細かい策はなかったが、経験に任せて即興で動くことにする。

近くの木へ移動し、身を隠す。

右手では、乃亜も同じように移動して別の幹に体を預けた。

もう迷っている暇はない。

包囲の外を警戒していた一人に向け、斜めに駆け寄る。

首を掴み、息を奪う。動かなくなったところで、静かに地面へと横たえた。

二人目の見張りがちょうどこちらを見たが、反応するには遅すぎた。腕を掴んで引き寄せ、銃を構える前に、俺のナイフはすでに腹に突き刺さっていた。叫ばせぬようにこめかみを殴りつける。

乃亜に合図を送り、後に続くよう促した。

横切ろうとした瞬間、彼女の背後から影が現れ、襲いかかろうと動いた。その速さに、俺は間に合わなかった。

「チッ……仕方ねぇな……」

教団を警戒させると分かっていても、撃つしかない――そう思った時、何かが俺と乃亜の間を掠めた。飛来したナイフが、襲撃者の額に突き刺さる。

数メートル後方に藤川が現れ、口元に歪んだ笑みを浮かべた。

「困ってる可愛い子を助けるのは、いつだって間に合うもんだろ」

俺は周囲の警戒線に目を向けた。縁の見張りは全て沈黙している。

「お前らがやったのか?」と低く問う。

「いや……」藤川は岩陰の向こうを指差した。

そこには、闇から現れた佐伯さんとその協力者がいた。あちらも側面を掃討したらしい。

俺は一度引き返し、彼らのもとへ向かうことにした。乃亜は父親の姿に喜びを隠せず、ついてこようとしたが、無用な動きは危険だ。彼女はまだ経験不足だと自覚しているのか、理解して遮蔽に残った。

藤川ともう一人の協力者はその場を押さえ続けた。初めての共闘だったが、互いに言葉はいらなかった。

「まるで昔に戻ったみたいだな、翔くん」佐伯さんはマガジンを押し込みながら言う。

「ええ……ただ、今はちょっと面倒な相棒がいるだけです」乃亜を見やりながら返す。

佐伯さんは微笑んだが、懐古に浸る暇はない。

「小百合さんたちはどこに?」

「本殿だ。小百合さん、谷口くん、アスタロトちゃんが周囲を回ってる。通信機を渡してある。突入の合図を待ってるはずだ」

「谷口? あんたは何で一緒じゃない?」その名を聞き、俺は困惑を隠せなかった。

「功くんと谷口の部下たちと一緒に側面を押さえてた。あとのことは……長くなる。今はそんな時間はない」佐伯さんの声音は鋭く、遮るようだった。

「すぐ動くぞ」

「フン……で、提案は?」諦めたように問い返す。

「お前らが道を掃いたおかげで、車まで戻って弾薬を補給できた。残りも全員片付けた」

「ってことは……」

「ああ。あの連中に合図を送るには、派手な花火がいる」佐伯さんは笑った。

「ハハ……引退で腕が鈍ってないといいが、師匠。花火が欲しいなら……見せてやるよ」

俺たちはすぐに動き出した。ついに――あいつと対峙する時が来た。

「月の神……か」歯の隙間から呟く。

「今夜、お前とそのクソったれな神様をまとめて地獄に送ってやる」



❊❊❊❊

次回:『満月の下で明かされる真実…』(第2部)


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