第21話 聖女と雷霆
無数の刃が、雨のように降り注ぐ。私を貫き、肉を断ち、骨を砕く。全身を刃として、射出する。打ち出す奇跡は在ろうはずもないので、おそらくは権能だろうか。
――神が天使を遣わした例は、存在しない。
長らく天使の召喚というものは聖句の解釈の上では可能だったが、それを行うことは人類が地を治めよという予言に抵触するのではという議論もあった。
だが、魔王は見事にそれをやってのけた。歪められないはずの天の法を。決して侵してはならない聖人の魂を、高貴な尊厳を。完全であるべき世界を、歪めたのだ。
「魔王――許されざる罪を、なんと、なんと、――」
体が無数の刃で砦に縫い付けられる。体を起こして治癒を試みる。――許されない。冒涜のあまり、言葉が出ない。歴史をかけて、神を信じ、人を愛し、歴史にその名を刻んだ聖人を! その魂を、自分の都合で捻じ曲げ、利用する――生かしておけない。
「――エリザ様!」
クリスが、砦の城壁の上に降り立った私に声をかける。――許されざる背教を見て。そして、地上を見た。……人が、死んでいる。まだ、拮抗している。人類は強くなっている。砦が、祈りが。奇跡が。まだ、魔族に人は負けていない。
その決め手が、聖人であっていいはずがない。心配そうに見つめるクリス。城下できっと、お兄ちゃんも戦っている。そうだ。私も全力を出さないといけない。――私には、まだ手がある。
そうだ。私の命は。ハナからどうでもいいものだから。
「クリス――皆を頼みます」
「エリザ様……なに、言ってるんですか」
「最後の奇跡を――解放します」
ルミーリアを睨みつける。あんな姿で。あんな風に人を傷つけていいはずのない存在を。胸の前で、手を組んで祈る。聖人が、無辜の人間を傷つけたいはずがない。
「――丘の上に休むものよ。天の座に座るものよ。あなたが現れる前に、あなたは使いを送り、その誕生を告げた。しかし、ひとびとは信じなかった。あなたが現れる前に、あなたは使いをおくり、その罪を告げた。しかし、ひとびとは信じなかった。罪を疑わず、救いを信じぬものに、なぜ主は使いを送るのですか。――信じないひとびとよりも多くのひとびとを信じさせるためである。わたしは、そのひとびとのためだけにあらわれるのではない」
脳みその中で、音が鳴っている気がする。魂のきしむ音。より大きな、霊的な何かが私を作り変える音だ。天は、魂の座。人の身で至ることができないのならば。奇跡を、より高出力で出し切れないのならば。私自身が、天に属する者になればいい。答えははじめから簡潔だった。
――意識が、明滅する。私によく似た誰かが、何かを話している。私と違う部分。黄金の眼と、白い鷲のような翼。そして、頭上にわっかが浮かんでいる。使徒の証明。後光。ヘイローだ。
「もう、後戻りはできません。そして、前に進むことすらも難しい」
うるさい。耳鳴りがひどい。めまいがする。動悸が、心臓がちぎれそうだ。
「立ち止まっていても、守れません。――あなたは、何のためにこの座を清めるのですか」
うるさい。うるさい、うるさい。一歩、踏み出す。今度は、私が叫ぶ番だ。
「後戻りなんて、するわけないでしょう! ――信仰と、この地を埋め尽くす人間に、祝福を施すためです!!!!!」
誰にも私は止められない。何もかも、捨て去ることになるかもしれない。でも、それでも。エリザは私に愛を与えて。お兄ちゃんは私が大事だって言ってくれたから。たったそれだけが欲しかった。初めからきっと、本当に欲しいものは戴いていた。この奇跡が。この愛が。神の奇跡のほかに、エリザとして与えられたこれらすべてが愛おしい。尊い。
それだけで十分。私は、聖女としての在り方を張り続けられる。簡単なことだった。
「碧落に至る奇跡」
虚空を蹴り、空を舞う。もう竜踏もいらない。これは、私の力。もう、重力に私は縛られない――。天に浮かぶ少女に向かって、ぐぐんと加速する。
「――っ!」
ルミーリアの器が、刃を私に振りまく。あらかたははじき、刺さる刃にももう何も感じない。今の私は、戦いに必要な体に作り変えられているのだから。
――かつて、異教徒と戦ったルミーリア。あなたは、どんな思いで戦っていたのですか。あなたは、何を祈って。列聖されて。何を信じて。
聖樹のブレスレットを、刃に変える。もう、何もいたくない。すべきことが明確にわかる。
ルミーリアに肉薄し、刃を振り上げる。相手の刃の方が、より速く私の頸に到達して――砕け散る。
碧落に至る奇跡。――生きながらにして自分を天使へと作り変える奇跡。大地の法ではなく、天の法により動く存在へと変換されていく奇跡。今はまだ、鋼鉄のような皮膚と、重力に縛られない肉体の獲得だけ。
だが、いずれきっと――もっと、何かを得られるだろう。人間としての私を手放していく。そういう感覚が、体に少しづつしみていく。
巡礼者の奇跡が、その進行を押しとどめている。
そうか。やっと理解できた。私の末路。私の最後。
ああ、こんなに祝福された末路なら。悪くないかもしれない。
天使の頸を、切り落とした。だが、まだ、まだだ。魔王を討ち滅ぼすまで。
「――雷霆の裁き」
雷撃が、敵を打ち砕く。
「――わが身は、神の刃である」
聖剣が、敵を串刺しにする。
「清めよ」
聖なる炎が、悪霊を浄化していく。奇跡の出力も、かなり高まっている。魔王軍は、退却のラッパを聞いて潮のように引いていった。
私も、一度帰らなければならない。
聖女が、一度砦に落下してきたときは。皆、敗北の二文字がよぎっただろう。だが、その後の聖女はどうしたことか。いつもより一層神々しい気配を纏い、天へと飛び立った。
そして、降り注ぐ刃をものともせずに。一瞬で敵を葬った。
「エリザ様……お願いだから、戻ってきて……」
クリスのつぶやきに呼応するように、ふわりと戻ってきて聖女は笑った。
「ただいま、クリス」
「へ……?」
「なんだかんだ、戻ってこれました。ありがとうございます」
意外な肩透かしに、クリスは破顔した。魔族軍は、切り札の一つを失った。私は、砦を守り切った。じわじわと進行する奇跡を、治癒の奇跡で無理に押しとどめる。皮膚より下は、まだ人間だ。だから、じっくりを私を天使にしようとする奇跡を、人であろうとする治癒で押しとどめる。
これで、完全な聖女としての終わりを遠ざける。
頭が、ひどく痛む。前よりも高い出力の奇跡を使えるはずなのに、どうしてだろう。
痛覚と触覚がなくなったので、食事をするのも一苦労である。クリスに甘え切って「あーん」とかしてもらってもいいんだけど……できるうちは自分で何とかしたい。
その代わりと言っては何だが、人間の信仰値みたいなのが感覚でわかるようになった。砦の人は基本高い信仰を持っているのだろうが、時折悪意や背信のものが城下に混じる。そういう人に積極的に話しかけてみると、だんだんと回心するのでやっぱり単にきっかけがないだけなのかなっていう感じだ。神の恩寵を知らないと信仰の啓蒙は難しい。人間の限界というべきだろうか。信じなければ神のしるしは現れないのに、神のしるしを見なければ信じたくないという人が多い。それは悪魔の信仰で、あなたは利益のために神を信じるべきではないと諭してやるしかない。
リンゴジャムをふんだんに使ったロシアンティー(ここではそうは呼ばないらしい。でも、どう見てもそれだ)を飲む。リンゴのさわやかな香りと、紅茶の華やかさが絶妙だ。付け合わせのクラッカーはややパサついていて味も薄いが、かえって口をさっぱりさせてくれる。甘さがくどいと感じる人にはちょうどいいかもしれない。
「……あっ」
クラッカーが手の中で砕ける。どうにも、力加減が難しい。
「エリザ様?」
「……すこし、ぼーっとしていたみたいです」
クリスとのティータイムも、この砦ではすっかり日常で。私が宙に舞ったのがすさまじい速さで喧伝されていた。
天を舞う魔法なども開発されていたが、技術的には私のそれとは違う。天にむかって落ちるように向かうこの感覚は何というべきだろうか……まぁ、体験できなければ無意味な話だ。
頭がずきん、と痛む。松果体をフル活用しているせいか、奇跡の出力のほとんどを日常生活で圧迫している。本来天にあるものとなれる奇跡は私の最高の神秘性を持つ奥義中の奥義。その進行は喜ばしきもので、押しとどめるのは……あまり歓迎するものではない。だが、それができているということは、まだ時は来ていないということだ。残された、短い時間の中で、私は大地に縫い付けられる夢を見ている。醒めるまでは足掻こうか。
エリザ様の様子が明らかにおかしい。常に疲れているとでもいうべきか――何らかの奇跡を常に回している、ような雰囲気を感じる。そのはずなのに誰にも、何にも奇跡の恩恵がない。
自分自身に、奇跡を回している? いや、だが、何のために? 刻まれた奇跡は松果体に負担をかけないはず。じゃあ、だれに、何に?
クラッカーが、砕けた。エリザ様の方を見る。エリザ様は驚くわけでもなく、冷静にクラッカーを片付け始める。おかしい。彼女が、食事を意識外でも粗末にすることなんて、ありえない。
そして、そんなことがあったのに驚くほどに穏やかで。
「エリザ様……。本当に、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。――いや、ひょっとすると、少し疲れているのかもしれません」
不意に、エリザ様が私を抱きしめてきた。力強く――いや、か弱い。これがエリザ様の全力。奇跡による壮健さを確保できていなければ、か細い力しかない、少女だ。エリザ様の、雛鳥のような高い体温が、冬の大地ではぬくぬくして心地よい。
「一応、全力で抱きしめています。クリス」
「……全然、痛くないです」
「そうですか。良かった――。クリスは、あたたかいですね」
その言葉に、心が凍る。エリザ様の体温で、私が温かい、のか?
「クリス。――いずれ、私が亡き後。この教区は完全にあなたのものです。正直、あなたほど心根のまっすぐな信徒はいません。……教皇を目指してもよいのではないかしら」
「……私は、そんなものいりません」
「立場は、信仰の位格です。あなたはいずれ、この提案を必ず受けることになる。なんででしょうね、そういう確信があります」
絶対にありえない。私は――それに、亡き後って。なんですか。
「死なないでください、エリザ様」
私の言葉に、エリザ様ははにかんだ。
「ありがとう、クリス」
私は、エリザ様のありがとうが――好きじゃないなと感じていた。ずっと、ずっとだ。ありがとう。心配して、止まってほしくていう言葉を大事にして、それでも止まるつもりはないのだ。
枷をはめるつもりで投げた言葉が、結局のところ推進力になっている。止まってくれない。止まれ。何度叫べば届くのだろう。わからない。
魔族もずいぶんと数を減らした。そのはずだが。そのつもりだったが。まだまだ黒い砂粒がひしめいている。
「あれだけの数を、どこから――」
戦場で前に立ちながら、思考する。敵は私を殺そうと向かってくる。並大抵の刃はもう通らないし、たとえ傷ついても痛くはないのだから何の問題もない。戦闘中は治癒をオフにして力をフル活用する。じんわりと、体の奥に少しずつ奇跡が刻まれているのを感じる。
敵の刃が砕け、私の拳が魔族の腹を貫く。体内に私の身体の一部を残しておき、一気に武器へと変換して全身を内部から刺し貫く。
「クソ、そんな、奇跡なんて卑怯なものを使いやがって!!!」
「……弱体化がかかっているはずなのにほとんど魔族の力も衰えがない……そういう魔法を使っているのですね」
魔族のはらわたを掴んで引きずりだす。効率よく、次を探す。雷霆ももはや使うまでもない。アグニフレイムを宙に撃ち、花火のように周囲にまき散らす。炎の矢が敵を巻き込み、火炎の竜巻を地上に呼び起こす。
「――聖女。ここで、今死ね」
鎧甲冑の大きな魔族が、刃を振り下ろす。殺気が鋭く、軽くバックステップで回避する。すれすれを刃が通り抜けるのを確認して、こぶしを叩き込む。
「葬討――!」
直接、叩き込む。べこべこと甲冑がへこみ、吐血する。だが、それでも刀を握ってこちらにふるってきた。速い。これはかわせない。
刃は結局私の皮膚に軽く食い込むだけだった。
「切れそうなのは見た目だけ、こけおどしですか」
腕をそのまま刃に変形して、カマキリのように振り上げる。
「それなら、さっきのはよける必要もありませんでしたね」
今回のはこいつが総大将だったようで、潮が引くように撤退していく。――これを繰り返して、こちらを疲弊させようとしているのが伝わる。
そろそろこういう小競り合いに飽きてきた。つられてやる。皆殺しにしてやる。
聖女は、敵の撤退を気にする様子もなく走り出す。大地を舐めるように噴き出す炎と、天から落ちる雷が一人も逃さぬという決意の表れのように魔族を滅ぼしていく。
その様子に、アルベールが小さく舌打ちをした。
「勝負を焦っている……?」
アルベールはクリスほど奇跡に通じていない。ゆえに、クリスにはうっすらと感づけた問題もさっぱりわからない。
だが、エリザの考えていることは分かる。魔族のちまちました攻撃(そんなことはない。かつてのデュラハンによる侵攻クラスが毎回来ているはず)に苛立っているのだ。
「クソ、エリザが釣られてこっちに別動隊でも来たらどうするつもり――やはりか」
エリザが向かったのとは別方向から土煙が立っている。援軍なはずはない。つまり、そういうことだろう。
すべて、エリザに頼るつもりか? 別動隊は砦のみで何とかすればいい。――エリザは、エリザの心のままに動けばいい。
こちらの敵は、俺一人ですべて滅ぼす。
「――心正しくあれ。……起きろ」
聖人の遺骸は武装となりうる。それは、エリザもルミーリアも示したところである。聖人の遺骸。それは、聖人がいない時代において魔族に対抗できる手段の一つ。
アルベールは、その剣を起こしたことはない。自らの剣技を恃むがゆえに。ベアトリスとの戦いでは、起こす暇もなかった。のんきに詠唱なんてして、疵を負えば。エリザがその痛みを負うのだから。
「――聖ユースティティアよ。我が問いに答えよ。悪を糺せ。罪を裁け。罰を与えよ。ふさわしきものにふさわしき報いを与えよ。谷を渡り、昏き夜を超えた巡礼者に報いを与え、正当な騎士を選べ」
聖剣ユースティティア。聖人の最も長い骨を使って顕現した、最強の聖剣。白金の剣。振るえば、たちまち闇を切り払うという。
「――聖女様なんかに頼らなくても、人類は戦える。エリザが生まれる前だって、滅ぼしきれてたわけじゃねぇだろ、クソ魔族が」
聖剣の輝きが、ほとばしる。
「一掃してやる。――雷霆の裁き」
青い雷撃が、大地を舐める。アルベールのほほが吊り上がる。
「なるほどな、これがエリザの世界か。負ける気がしねぇ」
暗い森の中で、青い雷撃が走る。回避する間もなく雷撃が全身を貫く。痛みはない。そういう機能はすでに切り捨てているから。死ぬ必要もない。この程度の出力なら、まだ耐えられるから。問題があるとすれば、この森の中を雷速で動き回る何かがいるということだけ。
――いや、わかる。純粋な信仰を持っている何かが、潜んでいる。私はそれを感じることができる。
「雷霆の裁き」
天使となりつつある部分をメインに雷撃を流す。うん、これならいける。皮膚の下にある筋肉部分にも雷撃が通せている。
これで雷速にも対応できる。
「そこです――」
きぃん、という甲高い金属音のようなものが鳴り響く。天使と天使。出力が同じであれば、こうなるということだろうか。無感情な青い瞳に、白く輝く髪色。後光のさすその姿。
「二人目、ですか――」
聖ユースティティア。魔王が天より招いた二人目の天使。ゆがんだ形で、己の使命を誤認している。
「つくづく悪辣ですね、魔王――!」
私の腕がちぎれ飛ぶ。雷撃の出力で言えば、私以上か。腕を手斧に変えて構える。
「――我がのちに、最も偉大なものが現れる。そのものは、天の御座に座りしもの。大いなる門をくぐるもの。大いなる門を築き、我らを招くもの。そのものに比べれば、我ははるかに小さい」
ユースティティアが、祈りの言葉を吐く。約定の聖句だ。私がかつて、前教皇の前で囁いた聖句。信仰を担保する黄金の言葉。
なぜ、そんなものを今? 無意味に等しいだろう。
向けられる殺意は本物。であれば、この言葉はシンプルな祈りだろうか。
「魔王のくせに、主を気取って天使を呼んで、私にぶつけて。その悪逆の報いを直ちに受けさせてやる」
復讐の預言。不信心者を切り刻んだとある律法学者の言葉をつぶやく。
「私は、汝の前に汝以外の血族すべての首を並べ、報いを与える」
不信心はその直系子孫と父方・母方の三族を鏖にしてもよいという法はこの言葉が由来である。
雷撃が、交差した。
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