揺れる稿面
*記者・川辺視点*
(5月12日午後、東京・日本橋 読売新聞社 編集部)
⸻
締め切り前の編集部には、妙な静けさがあった。
鉛筆を走らせる音、活字を並べる小さな金属音、奥の石版室からはときおり版木を打つ音――
いつもと変わらぬ雑然さの中で、ただ、誰もが妙に、言葉を選んでいた。
「……おい、これ見たか」
編集長席の隣、校閲机にいた先輩記者が、低い声で一枚の刷り上がりを手にした。
川辺は立ち上がり、肩越しに覗き込む。
小見出しにはこうある。
『露国皇太子襲撃事件 巡査津田、動機未詳のまま』
『政府沈黙を継続 司法の手続きに注目集まる』
川辺は歯噛みした。これでは、何も言っていないのと同じだ。
「これ、記事に見えるか? 字数だけじゃない、“伝える意志”の話だよ」
誰にともなく言うと、机の向こうから声が返った。
「書きたくても書けないんだよ、川辺。警視庁も内務省も、箝口令が敷かれてる。
動機も供述も不明。何を書けばいい」
「……陛下の動静も、載せられないんですか」
「載せるかどうかじゃない。“載せられない”。
あの方が怒っていようが泣いていようが、我々が勝手に書ける話じゃない」
川辺は机に手をついた。指先に鉛の匂いが移る。
彼は今日、朝からあちこちを走った。内務省にも、警視庁にも足を運び、手土産のような名刺を十枚以上置いてきた。が、いずれも「発表は未定」「担当者は不在」の返事ばかり。
先輩記者が苦笑いしながら、ボソリと漏らす。
「なあ川辺、お前さんのその熱意、もう少しだけ長く温存しとけ。
今は書けん。書いても載らん。載っても削られる」
川辺は何も言えず、自分の原稿用紙を見つめた。
そこには、午前中に必死に走り書きした、未発表の供述証言や、地方紙の記者から伝え聞いた滋賀の現地情報が断片的に並んでいた。
「……でも、火はついてますよ」
ぽつりと呟いた。
「世の中の、空気の底のほうで。
誰かが“裁け”って叫んでる。
それを“どう裁くか”、俺たちは見張ってなきゃならない」
それを聞いていた編集主任が、背後でふと手を止めた。
「……お前、夕刊には間に合わんが、明朝版の二面、余白が空く予定だ。
いまの言葉、そのまま書いてみろ。実名は出すな。確定事項以外、断定はするな。
だが、お前の中で“伝えたいこと”があるなら、それで三段埋めてみろ」
川辺は一瞬、言葉を失い、それから短く頷いた。
「……はい、ありがとうございます」
鉛筆を握り直し、原稿用紙を引き寄せる。
頭の中で、あの村岡という男の静かな声がよみがえる。
「――制度の正統性は、政府が提示するしかない」
書きながら川辺は思う。
政府の出す“答え”が、もしあやふやだったら。もし、誰かをかばっていたら。
そのときは、書くしかない。伝えるしかない。
その使命を、まだ若すぎる自分が担えるかどうかは分からない。
けれど少なくとも今夜、川辺信介は、原稿の前から逃げる気はなかった。
*
(5月12日 夜、読売新聞社 編集部)
「……一応、載せたぞ。明朝二面だ」
編集主任の声がしたとき、川辺は自分が椅子に沈み込んでいたことに気づいた。
背中が重い。肩に、昼からずっと張り詰めていた熱がじわじわと抜けていく。
「三段、ちょうど埋まったな。タイトルは“巡査の影、その先へ”にしといた」
「ありがとうございます……」
紙面が組まれたと聞いて、ようやく息が吐ける。
ただそれでも、原稿が「通った」からといって、全てが解決したわけではない。
いや、むしろこれからが本番だった。
「他社の動きは?」
隣の机で耳を立てていた別の若手が、刷り上がった紙面を見ながら訊ねた。
「東京日日は黙殺気味。朝日は論調探ってるが、載せ方が及び腰だな。
やっぱり、誰も“国の顔”に土を塗りたくないんだろうよ。
こんなとき、第一報の扱い一つで“非国民”呼ばわりされかねん」
「……事実を書いただけでも?」
「“その事実が、国益を損ねる”って言われりゃ終わりさ。
けど、そういう時代だ。だから、紙面ってのは火種にも盾にもなるんだよ」
主任がそう言って、机に載せていた冷めた茶を一口すすった。
「川辺、お前のやつは良かった。感情が走ってるようで、理性で踏み止まってた。
書き慣れた記者なら筆を鈍らせるが――お前には、まだ“怖れ”がないからな」
皮肉めいた調子だったが、川辺はその言葉を否定する気にはなれなかった。
事実、彼の原稿には「裁かれる者」と「裁くべき制度」への問いが込められていた。
だが、それ以上に――
「書かれなかった何か」に対する怒りがあった。
「村岡って官僚、あの人も怖れなかったな」
ふと、川辺は呟いた。
「言葉は丁寧だったけど、どこかに――
“どう思われても、これをやらなきゃならん”って決意があった」
主任は少し目を細めた。
「記者が見た官僚の背中。……そいつは、良い記事になるな。
今はまだ早いかもしれんが、いずれ書けよ。そういう一文が、紙面を変える」
部屋の隅では夜勤の整理係が夕刊の余白をめくり直し、印刷所では翌朝に向けて最後の調整が続いていた。
誰かが壁の時計を見上げる。午後十時を回った。
「……本当に、これで良かったんでしょうか」
川辺が呟いたのは、誰にともなく――もしかすると、自分自身への問いだった。
載せられなかった事実、削られた名前、避けられた真実。
けれどその一方で、今日という日を紙面に記すことの重みと、意味。
主任が最後にぽつりと言った。
「正解なんか、明日になってみなきゃわからんさ。
ただ――今日、お前が書かなかったら、何も残らなかった」
川辺は静かに頷いた。
明日、紙面が街に出る。
それが波紋になるのか、泡のように消えるのかは分からない。
だが、たとえ誰にも届かなくても、自分は書いた。
その夜、彼は眠れなかった。
けれど眠れぬ夜の底に、わずかに胸の熱が灯っていた。
それは不安とも、焦りとも違うもの。
川辺信介という名もなき若手記者が、記者であることを初めて自覚した夜だった。
(続く)
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