政務課にて
内務省庁舎、政務課の室内は張り詰めた空気に包まれていた。
午後二時を少し回ったところで、村岡理一は机の前に座り、幾通もの文書を手に取っていた。
その書類の端には、まだ乾ききらぬ赤インクで「極秘」と朱書きされた封筒があった。
封筒の中身は、先ほど滋賀県庁から届いた襲撃の現場詳細と、被害者の容態に関する速報である。
「……殿下の傷は浅いが、侮れぬ。顔面の切り傷は一箇所。医師の診断は、神経をかすめている可能性がある」
村岡は目を細め、噛み締めるように呟いた。
「何より問題は、犯人が警察官であることだ。これが外交上、致命傷となる」
「村岡課長」
横の席にいた係長が声を潜めて言った。
「外務省からの連絡が入りました。青木周蔵公使が直ちに帰京の途に就くとのことです」
「そうか……」
村岡は机の上に資料を広げながら応えた。
青木周蔵。日本の外交界において名を知らぬ者はいない。冷徹で切れ者だが、根底には国のために尽くす強い信念がある。
「早急に大使館を訪れ、ロシア側の要求を確認しなければならない」
政務課には既に、東京中の情報が集まり始めていた。
記者たちの動きは封じられているものの、官庁の隅々まで事件の波紋は広がりつつあった。
「松方大臣は御前会議の席を離れられず、指示は一切来ていない」
係長が続けた。
「だが、松方閣下の指示で臨時閣議を要請する動きはすでに始まっております」
村岡は深く息を吐いた。
日本は今、外交の瀬戸際にいる。明治天皇のご健康もまた、国の精神の象徴であったが、今はその姿勢が試されている。
「我々は、何を優先すべきか」
村岡の問いに、室内の者は誰も口を開かなかった。
「まずは、情報の正確な把握だ。憶測や感情は排す。法と外交の狭間で、我々は最善の策を講じねばならぬ」
その時、急に扉が開き、若い書記官が息を切らせながら駆け込んできた。
「課長! 更なる続報です!」
「話せ」
「津田巡査が……無期懲役の可能性が示唆されています。外務省の圧力で、死刑は避ける方針だと……」
室内が一瞬ざわめいた。村岡はそれを制した。
「死刑は外交的に火種となる。だが、国内世論の反発も覚悟せねばならぬ。板挟みになるのは我々だ」
彼は書記官に目を据え、厳しい声で言った。
「直ちに法務省と連絡を取り、児島惟謙大審院長への報告準備を急げ」
「はい!」
村岡は再び書類に目を落としながら考えた。
(この事件は、単なる警官の暴走ではない。国家の信頼、国際関係、そして法の正義――すべてを賭けた戦いだ)
政務課の薄暗い窓の外、東京の空は曇り始めていた。
時代の暗雲が近づいていることを、誰もが感じていた。
(続く)
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