第13話_幸のブレイクタイムセラピー
六月十三日、テスト週間まっただなかの午後四時。
学校中が鉛のような沈黙に包まれるなか、保健室の隣にある使われていなかった空き教室の前に、小さな立て看板が立った。
《三分間深呼吸ルーム どうぞ、お入りください》
手書きの字は柔らかく丸みを帯びていて、隅には小さなクローバーのイラストも添えられていた。
希実はその看板を見て、思わず目を細めた。
「幸が……これを?」
「うん。毎日誰かが泣いてるから、って。保健室だけじゃ足りないって思ったんだってさ」
教室のドアをそっと開けると、柔らかな間接照明と、ラベンダーの香りがふわりと迎えてくれた。
机は端に寄せられ、中央には丸い座布団が等間隔に並べられている。部屋の壁には「深呼吸のしかた」「手を胸に当ててみよう」などの優しいポスター。
そしてその真ん中に、幸が立っていた。
「来てくれたんだね。いまなら、ちょうど空いてるよ」
いつもの控えめな口調のまま、でもどこか少しだけ、誇らしげな響きが混じっていた。
「……うん。入ってもいい?」
「もちろん。三分間だけでいいから、深く息を吸って、吐いて。それだけだよ」
希実はふわりと座り込む。目を閉じると、背後で小さな音楽が流れはじめた。水の流れる音、鳥のさえずり。
――深呼吸なんて、ずっと忘れてた。
「……ふぅ」
音も、匂いも、やさしさも、ぜんぶが胸の奥に染みこんでいく。知らないうちに張り詰めていたものが、ゆるやかにほどけていく感覚。
気づけば、希実の目から、涙がひとしずく零れていた。
「……ありがと。幸。わたし、もうちょっとで、自分を信じられなくなりそうだった」
「……誰かを支えるって、いつも、すごくがんばってる人がすることだから」
幸は、そっと隣に座った。
「でも、支える人も、ちゃんと支えられていいんだよ。わたし、そういう居場所になりたくて」
その言葉に、希実は微笑んだ。
どこか遠くでチャイムが鳴った。次の補習が始まる合図だった。
でもその空き教室の中だけは、まるで世界が止まったように静かで、そして温かかった。
その日の夕方、深呼吸ルームの設営が終わったあとの教室に、隼人と俊哉、佳代もやってきた。
「へえ……なんだこの空間。深呼吸ルーム? おれ、こういうの初めて入るんだけど」
隼人は教室を一周見渡しながら、ポスターを読み上げる。
「“目を閉じて、心の音を聞いてみよう”……へえ。なにげに哲学的」
「いや、それよりもさ、俊哉。君、さっきから眉間にシワ寄せっぱなしなんだけど。まさか分析しようとしてる?」
佳代がくすくす笑いながら問いかけると、俊哉はバツが悪そうに目線を逸らした。
「ちょっと脈拍の変化とか、交感神経と副交感神経のバランスの推移を……いや、やめた。今はただ、感じる時間なんだろ」
希実がそっと手招きをする。
「そう。いまだけは、だれも評価しない。だれも測らない。休んでいい時間なの」
その言葉に、三人も座布団の上に腰を下ろした。
しばらく、誰も言葉を発さなかった。
けれど、それは決して気まずい沈黙ではなかった。
呼吸の音、音楽、壁に揺れる影。
佳代がぽつりと口を開く。
「わたし、ずっと“がんばらなくちゃ”って思ってた。何かを成し遂げなきゃ、居場所がなくなる気がして」
「……そうだな。おれも、役に立てない自分をずっと責めてた。……家族のことでも、今でも答えは出ないし」
俊哉が目を伏せながら続けた。
隼人もまた、真剣な顔で天井を見つめる。
「正しさとか効率とか、そういうのに縛られてさ。でも今日ここに来て、ああ、こういう時間って、必要なんだって……やっと思えた」
幸は、全員の顔をゆっくり見まわして、笑った。
「……それが聞けて、うれしい。みんな、今日だけは、自分を許してあげてね」
しばらくして、チャイムが鳴った。
「……もう行かなきゃ」
佳代が立ち上がると、ほかの三人もゆっくりと腰を上げた。
「ねぇ、幸。これ、明日もあるの?」
「うん。もちろん。しばらく続けるよ」
希実がそう答えると、教室を出る前に佳代が振り返って言った。
「よかった……また来る。わたし、ここ好き」
そう言って、彼女は笑った。今まででいちばん、やわらかい顔だった。
生きていくうえで、大切な呼吸。
それは、誰かに手を引かれて初めて思い出せるものなのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます