第2話_校則ゼロ週間を提案する少女
四月八日、午前八時三十分。
新学期初日の体育館は、眠気と退屈に満ちていた。全校生徒三百人が椅子に整列し、壇上では校長が延々と話している。
「……この校則は百年前、我が緋月町の自治と品格を……」
隼人は三列目の席で、こめかみを指で押さえていた。スピーカーから流れる抑揚のない声は、まるで時を止める催眠装置だ。前の席では遥斗が腕組みしてうなずいていたが、顔は「もう三回くらい聞いたぞ」と言いたげだった。
すると――壇上の脇から、ひとりの少女が歩み出た。
「失礼します、ちょっとだけいいですか?」
校長の話が止まる。体育館の空気が一瞬で張りつめた。
それでも希実は迷いなく、マイクの前に立った。
「新学期、始まりました。新しい制服、新しいクラス、新しい出会い。だから、もう一つ“新しい空気”を加えませんか?」
彼女の声は落ち着いていた。だが、その言葉の意味は会場の空気を一変させた。
「わたしは、“校則ゼロ週間”を提案します。一週間だけ、校則を外して生活してみてほしいんです」
体育館にどよめきが走った。数人が笑い、何人かが顔をしかめた。前列に座っていた遥斗は、椅子から立ち上がった。
「そんなことしたら、無法地帯になるぞ!」
「信頼があれば、案外平和なんです」
希実は淡々と返す。
「ルールがないから争うんじゃない。信頼がないから争うんです。なら、信頼で一週間を埋めてみようよ、って話です」
「だが校則は、先人たちの知恵の積み重ねだ。簡単に変えちゃいけない」
遥斗の声には苛立ちが混じっていた。彼はこの学校の生徒会長であり、“守るべきもの”の象徴でもある。
だが希実は臆さなかった。
「じゃあ、やってみて、問題が出たら考えよう。知恵があるなら、変化にも対応できるはずでしょ?」
その瞬間、どこかで「なるほどな」とつぶやく声が聞こえた。隼人だった。彼はマイクの横に歩いていき、希実の横に立った。
「面白そうだね。ルールって、本来“疑われる”ためにあるもんだと思ってるからさ」
希実は少しだけ、笑った。
それは「味方ができた」ことへの安堵ではなかった。ただ、信じた種に陽が差したような、そんな笑顔だった。
校長は困惑の面持ちで二人を見つめていたが、生徒たちの表情は明らかに変わっていた。ざわめきは鼓動のように徐々に広がっていき、それはまるで――時計の針が、静かに動き出す音のようだった。
校長が壇上で苦い顔をしたまま沈黙している間にも、生徒たちのさざ波のような声は広がっていった。
「マジで? 校則ゼロって、スカートの長さとか関係なくなるの?」
「スマホも自由になるってこと? え、それって超ラッキーじゃない?」
「いやでも、誰かが悪用したら終わるやつじゃね?」
あちこちで賛否が交錯するなか、遥斗は一歩前に出た。
「賛同者がいるからって、学校全体を巻き込んでいいわけじゃない!」
「だから、一週間だけ。“実験”として観察すればいいの。結果を見てから、また考えればいいよね?」
希実の声は、強いがとげとげしくはなかった。むしろその落ち着きに、聞いている側が反応に困ってしまうような、不思議な重さがあった。
「ねえ、隼人くん」
不意に名前を呼ばれて、隼人はびくりとした。さっきまでマイクの横で気楽に立っていたのに、突然スポットライトを浴びた気分だ。
「君、ルールは“疑われるためにある”って言ってたよね。それ、説明して」
「えっ、俺が? ……えーと……」
隼人は手帳を取り出しながら、観客席に向けて少しだけ顔を上げた。
「俺が思うに、ルールって、“そのとき正しいと思われたこと”を形にしたものなんだ。けど、時代が変われば、人も変わる。だから、ルールは時々“なんでこれが必要なのか”って考え直すべきだと思ってる」
それは教科書にあるような答えじゃなかった。でも、彼の口から出た言葉は、会場のあちこちで「そうかも」と小さくうなずく生徒の心に届いていた。
「つまり、疑うってのは壊すことじゃない。“今も必要か”を確かめる作業ってこと」
希実はその言葉に満足そうにうなずいた。
「信頼も、同じだよ。強制されてないからこそ、試される。誰かに管理されていない状態で、お互いがどう振る舞えるか」
隼人は、自分が言いたかったことをさらに一歩深められた気がして、苦笑いを浮かべた。
その瞬間、体育館の後方に立っていた教頭が、校長に耳打ちをしに近寄った。校長はしばらく目を閉じて考え込んでいたが、やがてマイクを手に取った。
「……一週間。確かに短い。だが、“失敗”からしか学べないこともある。観察と記録がきちんと行われるなら、試す価値はあるだろう」
希実の目が見開かれた。
「マジで!? 校長、やってくれるの?」
会場がどっと沸いた。
遥斗は一瞬だけ苦い顔をしたが、すぐに姿勢を正し、言った。
「ならば、生徒会もその実験に立ち会う。記録と安全管理は、生徒会の責任で行う」
彼なりに譲歩したのだろう。その言葉に、希実は素直に頭を下げた。
「ありがとう。そういう信頼、すごく嬉しい」
生徒たちの拍手が起きた。それは、喝采というよりも――「始まりの合図」に近かった。
隼人はその音を聞きながら、手帳に一行書き加える。
《信頼は、ルールを超えるとき、初めて本物になる》
始まったばかりの一週間が、どんな変化をもたらすのか。
それはまだ、誰にもわからない。
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