花天月地【第39話 夜螢】
七海ポルカ
第1話
額と、首元。
ずっと手を当てられ、
これで駄目だ、まだ熱が高いなどと言われたらどうしようと不安だったが、
「すっかり熱は下がっていますね。起き上がっても良いでしょう」
お許しが出た。
ゆっくり身を起こす。
少し頭がくら、としたが、これはずっと寝ていたからだ。
起き上がってしばらくすれば消えるだろう。
「本当は熱が下がったからといって一日はゆっくり家で過ごしなさいと言うべきなのでしょうが」
寝台から下りようとしていた目の前の青年が途端にとても悲しい顔をした。
それを見て、徐庶の母はため息をつく。
「やはりそうは行かないのでしょうね?」
こくこく、と大きく頷いている。
「仕方ありませんね。湯を沸かしてあるので、湯浴みをして下さい。
その間に朝餉の用意をしておきますから」
「はい」
いや、どうか今すぐ飛び出して行かせてくれと言いたかったが、言うと更に出立が遅れそうだったので陸議は従順に従った。
湯は丁度いい温度になっていて、そろそろ目覚める頃だと考え湯を沸かし、ほどよくしておいてくれたのだろうと思うと、身体だけ洗ってサッと出て行くのも申し訳なく、陸議は「十五分」と覚悟を決めて湯に浸かった。
今、
抵抗するだろうか、
それとも話し合いでなんとかなるだろうか、
そんなことを目を閉じ、顎あたりまで深く湯に浸かって考えた。
集中して考えたので存外すぐ、時間は過ぎた。
もういいだろうと思い、湯から上がり、身体を拭くと、自分の服がきちんと畳まれて置いてあった。
居間へと戻ると、丁度
「あの、母君、衣を洗って下さってありがとうございました」
きちんと陸議が湯に浸かったと見たのだろう、徐庶の母は機嫌が良かった。
「いいのですよ。たったあれくらいのこと、労もありません。
食欲はありますか、陸議様。
無理に食べることはありませんが、食べられそうなものを少しは食べて行って下さい」
「ありがとうございます。少し、いただきます」
陸議は席に着くと手を合わせ、徐庶の母の顔を見て「いただきます」と頭を下げた。
素直なその様子に、徐庶の母は目を細めた。
「陸議さまは素直で礼儀正しいこと。
陸議は目を瞬かせてから、倒れる前の遣り取りを思い浮かべた。
自分の体調が悪いと思って、徐庶は気にしてくれたのに声を荒げたり睨み付けたりしてしまった。
本当に子供のような駄々の捏ね方であったと思い起こせば、赤面してしまうほどの失態だった。
「……いえ……徐庶殿の仰ってることが正しいです。
遠征初日に私などが倒れて軍に迷惑を掛けたくないと意地を張って、手を患わせてしまいました」
「まあ……そうなのですか」
「はい……母君にも徐庶殿にも大変申し訳ないことを致しました。
合流したら、心から謝罪しておきます……」
徐庶の母は笑った。
「気にしないで良いのですよ。貴方は従軍も慣れておられないから、張り詰めていらしたのだろうと元直殿も言っていましたから。大丈夫。分かっております」
食事を進める。
徐庶の母も一緒に少し食べてくれたので、それほど気が咎めなかった。
「そう言えば、陸議様の剣はそこに置いてありますが、すごい装飾なのですね」
【
「はい……私の手には余るほどの名刀らしいのです。
戦いの剣に、美術品のような装飾があるのが珍しかったらしいので、陸議は食事をしながら少し雌雄二羽の孔雀や、
徐庶の母は非常に興味深そうにその話を聞いている。
「そう。陸議様はお若くていらっしゃるのに、司馬懿殿にそのような宝剣も贈られ、副官にも抜擢されておられる。期待されておられるのですね」
期待とはまた違うと思うが、徐庶の母に否定しても仕方ないので「勿体ないことです」と小さく笑んでおいた。
熱が下がったばかりなのであまり量は食べられなかったが、三十分ほどゆっくり食事をした。
徐庶の母がお茶を最後に淹れてくれる。
「ありがとうございます」
静かな朝だ。
窓の外の庭は、紅葉が綺麗だった。
「私はあまり息子が軍で、どのように役に立てるのか分からないのですけれど」
「私も、
えっと……、徐庶殿が兵を選抜し、作り上げた軍なのです」
わかりやすく言い直すと、徐庶の母は理解出来たらしく、驚いていた。
「そうなのですか」
「はい。修練などにも付き合っていただきましたが、戦の知識や軍略などは、徐庶殿は素晴らしい才を持っていらっしゃると思います。
司馬懿殿や賈詡将軍などとも、遜色なく話すことが出来ますし」
徐庶の母はしきりにため息をついている。
「自分の子ではないようです。
一体、どこでそんなことを習ったのかしら……」
涼州遠征が無事に終わり、徐庶がこの家に戻ってきた時に、そういう話をゆっくり親子で出来たらいいなと陸議は密かに思った。
まだこの母子は少年時代に別れてから、再会して間もないのだ。
まだあまり時を共に過ごしていない。
自分も、
徐庶と徐庶の母の関係は、少し自分と陸康の関係の方に似ている。
お互いに気遣いや、遠慮がある。
……感謝を感じて、大切にしているからこそだと陸議には分かった。
そろそろ出立します、と立ち上がる。
「本当に、母君、お世話になりました」
徐庶の母も見送るために立ち上がって歩いて来た。
「いえ、母君。私はここで……」
「見送らせて下さい、陸議さま。
陸議様は魏の国のために戦いに行くのです。
私が
元々いた土地は小さな村だったので
こんな穏やかな生活など、この歳になるまでしたことはありませんでした。
ですから、これから戦場に行く方を座ったまま見送るわけには行きません。
罰が当たります」
見送られるのは苦手だったがそこまで言われると、陸議は納得するしかなかった。
【
まだ、手に馴染みきってない。
……剣が手に馴染むのは人を斬ってからだ。
この遠征が終わる頃には、馴染んでいるだろうか?
「その赤い布もお持ちになって下さい。なにか……拭けたり、止血帯にも使えるかもしれませんし」
「……ありがとうございます」
屋敷を出ると、庭先に陸議の馬がいた。
「
「ありがとうございます。ほったらかしにしてしまって。
でも、おかげで機嫌がいい。これなら早く走ってくれると思います」
陸議は行儀良く待っていた自分の馬の首筋を優しく撫でてやった。
「では本当に、お世話になりました。母君。どうかお元気で」
深く一礼する。
「陸議さまもお気をつけて。
あの……」
おずおず、と徐庶の母が差し出してくる。
「……私は本当に、戦の時に何が必要かなど、分からなくて。
何に使えというわけではないのですが、何かに使えるかもしれないので、元直殿にお渡し下さいますか? 最初からこの屋敷にあったのですけれど、美しいですが、住んでいる中で使うこともないので……勿体ないのです」
美しい、朱色の飾り紐を渡された。
質のいいものでしっかりと結わえてある。
「丈夫なものですから戦の折、何かの役に立つと思います。
必ず徐庶殿にお渡しします」
陸議は飾り紐を大切に懐にしまうと、騎乗する。
馬に跨れば、一気に目の前の青年の穏やかな雰囲気が変わった気がした。
徐庶もそうだった。
そこに佇んでいると物静かな青年にしか見えなかったが、馬に跨がると一気に別の世界で生きてる人なのだと実感する。
「母君、…………徐庶殿のことは、どうかあまり心配なさらないで下さい。
必ず、あの方が洛陽に戻れるよう……私も力を尽くして、……お守りしますので」
徐庶の母が目を見開き、少しだけ目元を袖で押さえた。
「行って参ります」
それ以上、女性の涙を見る勇気が無く、陸議は馬に合図を入れて走り出した。
お気をつけて。
声が聞こえた。
……何故か少し、泣きそうな気がした。
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