ブリンディル王国に向かう馬車にて


「ハディンス。その新聞はまだ読んでいないんだ。破かないでくれないか」


 最低品質だろう安紙に印字された新聞をいまにも破りそうなほど握りしめている同僚のラヒムに、カイルが声をかけると、ぎんっ! と刺すような視線で睨まれた。


「これが落ち着いていられるかっ! 尊く素晴らしいラナジュリア様のことを中傷するなど……っ! 万死に値するっ!」


 手の中では、新聞がしわだらけになっている。新聞が揺れているのは、馬車の揺れが伝わっているのではなく、わなわなと怒りに打ち震えているせいだろう。


「ラヒム。その新聞はわたくしもまだ読んでいないの。破らないでちょうだいね」


「もちろんでございますっ!」


 隣に座る敬愛する主・ラナジュリア王女の言葉に、ラヒムがはじかれたように背筋を伸ばす。


 それだけでなく、膝の上で懸命にしわを伸ばし始めた様子に、対面に座るカイルは内心で苦笑した。


 少々忠誠が行き過ぎるきらいはあるが、ラヒムがラナジュリアに捧げている忠誠はまぎれもなく本物だ。


 いや、もはや崇拝といってもいいかもしれない。


 と、真剣な表情で新聞を撫でてしわをとっていたラヒムがはっと息を呑む。


「いえっ、ラナジュリア様っ! ゴーディン新聞のような下賤げせんな新聞を読まれる必要はまったく! 全然! 欠片もございませんっ! この新聞は害悪以外の何物でもございませんっ! ラナジュリア様さえお許しくださるのでしたら、このラヒムがただちに破り捨てましょう!」


「ラナジュリア様が読む必要はないというのは俺も同意する。だが、破り捨てるのはやめてくれ」


 敬愛する主のことが絡むとどこまでも過激になってしまうラヒムを呆れ混じりに制すると、まるでカイルこそがにっくき新聞社だと言わんばかりの視線をラヒムが向けてくる。


 ラヒムはマルラード王国の第一王女であるラナジュリア付きの近衛騎士団の副団長だが、同じ近衛騎士の騎士服を着ていても、カイルは実は近衛騎士ではない。


 ラナジュリアは現在、マルラード王国を出立し、視察のために技術先進国である隣国のブリンディル王国へ向かっているところだが、カイルはラナジュリアの要望で、急遽きゅうきょ近衛騎士団の一員として同行することになったのだ。


 『どこの馬の骨とも知れん輩が他の近衛騎士達を差し置いてラナジュリアと同じ馬車に乗っているなんて許せん!』と言わんばかりの態度で対応されるが、ラナジュリアの安全を守る近衛騎士としては、このくらい厳しいほうがいいのかもしれない。


 それがわかっているので、カイルもラヒムに表立って抗弁したことはない。


 カイル達の言葉に、ラナジュリアがあっさりと頷いた。


「ラヒムとカイルがそう言うのなら、わたくしは読まないでおきましょう。けれど、わざわざブリンディル王国の新聞を取り寄せているのは、わたくしに対する悪い噂を含めて、ブリンディル王国でわたくしがどう評価されているのか知るためですわ。その目的のためには、ちゃんとカイルも読んでおくべきでしょう?」


「ゴーディン新聞社の記者達は全員、目が節穴なのですっ! これほど素晴らしいラナジュリア様のことを根拠もなくあしざまに書くとは……っ!」


 カイルは身を乗り出し、ふたたび新聞を握りしめそうなラヒムの膝の上から、さっと新聞を回収する。


 一面には『ラナジュリア王女の狙いはブリンディル王国の富か!? マルラード王国で流れる王女の噂を徹底研究!』と低俗なあおり文句がでかでかと印刷されている。


 『!?』とつけておけば、『真実として報道したわけではありません。あくまでも推測を報じただけです』と逃げられるし、『研究しているのはあくまでも噂ですから』と言い逃れることも可能だ。


 ゴーディン新聞社はゴシップ記事を中心に扱うさほど大きくない新聞社とはいえ、この新聞を読んだ者が、ラナジュリアに対してよい印象を抱くはずがない。


 姑息こそくな手段に、カイルもまた苛立ちを感じる。


 他人をおとしめたいのなら、こんな卑怯ひきょうな手段ではなく、確固たる証拠を集めた上で、正々堂々真正面から向き合うべきだ。


 王族だからといって、こんな風にいわれなく中傷されるべきではない。


 胸中の不快感を吐き出すようにひとつ息をつくと、カイルはラナジュリアに一面が見えないように新聞を折りたたんで他の記事の見出しを確認していく。


 カイル達がわざわざ隣国の新聞を取り寄せて確認しているのは、ラナジュリアがブリンディル王国の王太子・レルディールの婚約者候補のひとりであるためだ。


 技術先進国であり、高い国力を誇るブリンディル王国は、ラナジュリア個人だけではなく、マルラード王国の立場としても魅力的な嫁ぎ先だ。


 だが、そう考えているのはマルラード王国の貴族だけではない、ブリンディル王国の貴族達は当然、自分の娘を次代の王妃にすることを望んでいるし、ブリンディル王国をはさんでマルラード王国とは反対の北側に位置するタンゲルス王国も、王女をレルディールに嫁がせたいといわれている。


 誰が王太子妃の座を射止めるのかは、貴族のみならず、庶民にも興味深い話題なのだ。


 だからこそ、この新聞記事のような、庶民の興味を引いて売れさえすればそれでいい、と言わんばかりの悪辣あくらつな新聞が発行されるのだろうが。


 くい、と黒縁眼鏡のブリッジを押し上げ、カイルは素早く見出しを確認していく。


 ブリンディル王国に視察に行く者として、ブリンディル王国の最新の情勢は押さえておくべきだが、それらは信用がおける大新聞をじっくりと読めばいい。


 カイルがゴーディン新聞を読みたかった理由は別にある。


 新聞の最後のほうで、ようやくカイルはめくっていた手を止める。


 馬車の座席にもたれ、腰を据えて読み始めたのは、さほど大きくもない欄に書かれた書評だ。


 書評には、レノルド・マーティンと記者の名前が署名されている。


 じっくりと書評を読んだカイルは紹介されている本の題名と作者名を頭の中で復唱する。本屋に行く機会があれば、購入しようと考えながら。


 ろくでもない記事ばかりのゴーディン新聞だが、書評欄だけは悪くない。


 他の記事で署名を見たことがないので、書評を担当しているマーティン氏は、おそらく外部の雇われなのだろう。だからこそ、のびのびと書評を書けるに違いない。


「何かおもしろい記事でもあったのかしら?」


 カイルの微妙な表情の変化に気づいたのだろう。ラナジュリアが興味深そうに尋ねてくる。


「いえ、そういうわけでは……」


「そういえば、ゴーディン新聞は半年ほど前から挿絵がよくなったわね。腕のいい画家でも見つけたのかしら?」


 言葉を濁したカイルをそれ以上追及することなく、ラナジュリアが別の話題を口にする。


「確かに、ラナジュリア様のおっしゃるとおりですね」


 ふだん、書評欄を除けば見出しを確認するだけなので、言われるまで気づかなかったが、確かにラナジュリアの言うとおりだ。


 いつの間にやら、ゴーディン新聞の挿絵がずいぶん巧くなっている。


 読者の興味を引くように、庶民向けの新聞では記事に挿絵が入っていることが多い。


 カイルが聞いた話では、最近、見たものをそのまま紙に写すという信じられないような機械が発明されたらしいが、新聞に載せるほどまでは普及していないらしい。大手新聞社の記事でまれに見かけるくらいだ。


「ラナジュリア様っ! ゴーディン新聞などにお褒めの言葉をかけてやる必要などございませんっ!」


 ラヒムがゴーディン新聞の名など口にするのも汚らわしいと言いたげに吐き捨てるが、ラナジュリアはどこ吹く風だ。


「あらでも、たとえ敵でもよいものはよいと認めるべきでしょう? わたくし、狭量にはなりたくありませんわ」


「なんと素晴らしいお心映え……っ! さすがラナジュリア様ですっ! わたしめは感嘆いたしました……っ!」


 ラヒムが感嘆に口元を押さえて声を震わせる。


 ブリンディル王国の国民が、ラヒムの百分の一でもラナジュリアを尊敬してくれたら……。と、思わずらちもないことを考え、カイルは苦笑してかぶりを振る。


 ラナジュリアのことだ。カイルが気をまなくとも、彼女は彼女の資質で周囲を魅了していくに違いない。


 カイルがこうして近衛騎士になってまでラナジュリアのためにブリンディル王国へ同行してきたように。


 今回の旅でラナジュリアが望むものを得られるように。


 そのために自分は力を尽くそうと、カイルは改めて心に誓った。


                               おわり

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