#04 静寂、分裂、スケジュール、会議室
──午後二時。新宿、ある芸能事務所の会議室。
ブラインドは半分だけ閉じられていて、外から射す日差しは白く鈍っていた。
エアコンの風が一定のリズムで壁に当たるたびに、ポスターの端が、かすかに揺れる。
時計の針の音が、やけに耳についた。
誰も喋らない空間は、まるで音を拒むかのように、張りつめている。
話し声があったはずの場所に、静けさだけが染みついていた。
「
“静寂センター”なんて呼ばれ始めたのは、いつ頃だったか──もう思い出せない。
斜め向かいでは
画面に映るのは、フィルム風加工をかけた自撮りと、それについた無数の「いいね」。
“記憶系カメラ女子”。誰よりもそのタグを誇りにしてるのは、たぶん本人だ。
誰とも目を合わせず、壁のひび割れのようなシミを、じっと見つめていた。
“無口な詩人”。時折SNSに投稿される短い言葉が、妙に多くの人に刺さる。
センターじゃないはずなのに、誰よりも“言葉”で人の心を動かす──ことねは、そう思っている。
その指は動かない。映っているのは、通販で買ったままの文庫のレビュー画面。
“読書アイドル”。読んだフリをするのも、それっぽく感想を語るのも、もはや一種の才能だ。
本当は彼女は1冊も本を読み切ってない──それを知っているのは、ことねだけでいい。
誰かがため息をついたような気がした。けれど、誰だったかは分からなかった。
──この空気も、もう慣れた。
ことねが、わざとらしくページをめくる音を立てて、沈黙を破る。
「……来週のMV撮影だけど、リハが前日になったから。スケジュール、各自、確認しておいて」
ことねは言いながらも、誰の目も見なかった。
誰かが「うん」と返すだけで、ほんの少しは救われた気がしたのに──誰も何も言わなかった。
その沈黙に、今度こそことねが耐えられなくなる。
言わなきゃ、と思った。
このまま流されるのはもう嫌だった。
けれど、言葉を出すだけで、誰かに嫌われてしまう気もした。
それでも──自分は言わなければ、誰も気づいてくれない。
そんなことを考えている間に、しおんがおもむろに鞄を持って席を立ち上がっていて、気が付けば思わず声を上げていた。
「ちょっと待ってよ。どこに行くつもり?」
声を張ったつもりはなかった。でも、自分でも分かるほどに、揺れていた。
「何?もう終わったでしょ?」
しおんは小さくため息をつき、怠そうな顔でことねを睨む。
「……あのさ、私がどれだけこのユニットのために、スケジュール回して、現場を押さえて、段取り組んでるのか……わかってるよね?」
「知ってるよ」
しおんは目を合わせなかった。代わりに、壁の時計をぼんやりと見ていた。
「……でもさ、それって、全部“ことねの正しさ”でしょ? あたしたち、いつからあんたに“合わせるだけ”になったの?」
「それは、合わせてるんじゃなくて、まとまらないから──」
「はぁ……なんかさ、そういうの、疲れた」
その言葉が、ことねの喉に引っかかった。
しおんは手にしていた鞄を椅子に置き、ドアの方へ向かう。
ことねが何かを言おうとした瞬間、しおんが振り返った。
「……なに? まだなんか言いたいことあるの?」
ことねは何も言えなかった。ただ、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。
しおんがドアノブに手をかけた、そのときだった。
「……待って。しおん」
呼び止める声が、ことねの口から漏れた。
しおんは、もう振り返らなかった。
「……別に。出てくの、やめてほしいとか……そういうのじゃない」
ことね自身の声が、少しだけ震えていた。
「じゃあ、何?」
「……しおんは、まだ、“灰とキャンディ”やる気、あるの?」
沈黙。
しおんの肩が、わずかに揺れた。それを、ことねは見逃さなかった。
「は? 何? やる気って。今さらそんなことの確認?」
「今さらなんかじゃない。毎回、誰かの態度見て“察する”しかないの、もう疲れたの。私だって」
静寂が落ちる。
やがて、しおんがぽつりと呟いた。
「……あんたが、勝手にまとめようとするからでしょ」
「……は?」
「あたしたちの気持ちも聞かずに、全部“自分だけが背負ってます”みたいな顔してさ。
あんたの正しさを押しつけて、あたしたちが黙ってるのをあたかも“賛成してる”って解釈する。それも都合よく──」
「私は、別に! 押しつけてるつもりなんか──!」
その声は思ったよりも大きかった。
張りつめた空気が、一気にきしんで崩れそうになる。
だが、ことねはすぐに口を閉じた。
自分が今、感情に負けかけていると気づいたから。
しおんは振り返らなかった。
「……あたし、もう“アイドルでいる理由”なんて、とっくに見失ってるよ。じゃ、トイレ」
パタン、とドアが閉まる音が、場の空気を切り裂いた。
柚葉がスマホを見たまま、口を開いた。
「……SNSの投稿も、今週響だけだったしね」
「柚葉、投稿、忘れてたの?」
問いかけというより、どこか責めるような響きだった。
ことね自身、それに気づいていた。
「何それ?違うけど。忘れてたんじゃなくて、ただ、あげる気にならなかっただけ」
「……はあ?」
「そもそも、公式が何もしてくれないのに、個人で動くのにも限界があるんだけど。
あんたも投稿してないくせに、適当なこと言わないでよ」
「その“限界”って言葉使えば、全部正当化できると思ってる?」
柚葉がスマホをパタンと伏せた。
その動きが、思ったより大きな音を立てた。
響が、珍しく軽くため息をついた。
「……“文学的なアイドル”なんて言われ始めてから、何もかもが嘘くさくなったよね」
全員、黙った。
ことねは言葉を飲み込んだ。
代わりに、手元のスケジュール表を折り曲げる音だけが響いた。
その音は、まるで誰かの心が折れる音のようにも聞こえた。
その後も、誰も口を開こうとしなかった。
紙コップの水が、ひとつ、テーブルの端で揺れていた。
誰も動かしていないのに。
ことねは、唇を噛み締めながらゆっくりと口を開く。
「……柚葉、来月のスチール撮影、ヘアメイク希望あったら、今週中に連絡しておいて」
なるべく平静を装った声。ただの業務連絡。それだけだ。
柚葉は、ため息をついたあと、ぼそっと答えた。
「あっそ。誰でもいいよ。もう、どうでもいいし」
「──っ!……じゃあどうでもいいなら、辞めれば?」
それは、ことねの本音ではなかった。
けれど、言葉は止まらなかった。
「そうやって、やる気がないなら、スケジュールに名前載せるだけ無駄だから」
「……そういうとこだよね。あんたのそういう“正しさ”が、一番しんどいって言ってんの」
柚葉は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
スマートフォンをポケットに突っ込んで、視線をことねにぶつける。
「なんで、あんたの中の“ちゃんと”を、全員が守らなきゃいけないわけ?」
黙って聞いていた神楽 響が、ようやく口を開く。
「……でも、実際ことねが一番、アイドルに執着してるよね」
その言葉が、会議室に重く落ちた。
「……別に、それが悪いって言ってるんじゃないよ。
ただ──うちら全員が、ことねと同じ気持ちでやってるわけじゃないってことを理解したほうがいいと思う」
ことねは何も返さなかった。
言いたいことは、山ほどあった。
でも、その全部が「自分を守るための言葉」になってしまうような気がして、何も言えなかった。
数秒の沈黙のあと、響がゆっくりと立ち上がる。
読みかけの──いや、読みもしなかった本をバッグにしまいながら、小さく独り言のように呟いた。
「……結局、今日も何も決まんないじゃん」
誰に言うでもなく、そのまま扉へ向かい、足音も立てずに消える。
次に柚葉が響の後を追うように扉へと向かう。
無言で髪をかき上げ、ことねには一瞥もくれず、通りすがりにぽつりと漏らす。
「さっきのセリフ、ファンに聞かれたら解釈祭りだね。“静寂センター”さん」
ことねが何か言い返すより早く、柚葉の背中はもう見えなくなっていた。
トイレに行ったはずのしおんが戻ってきたのは、それから数分後だった。
「……もうみんな帰ったの?」
ことねは答えない。
しおんもそれ以上は何も言わず、静かに鞄を拾い上げる。
「そう……がんばってね。“リーダー”」
その言葉が、意外にも優しく聞こえてしまったことに、ことねは少しだけ驚く。
でも、何も言えなかった。
扉が静かに閉まる。
そして──会議室には、ことねひとりだけが残された。
──ああ、またこうやって、誰もいない部屋に取り残される。
“リーダー”って、何なんだろう。
誰かの正しさになること。
誰かに嫌われること。
そのどっちかしかないのなら。
本音なんか吐いたら、崩れてしまう。
正解の顔をしたまま、間違いを繰り返すことしか、もう選べないのかもしれない。
“守る”って言葉で、全部、自分の都合を押し通してるだけなんじゃないか──。
そんな風に思うたびに、少しずつ、自分が薄くなっていく。
「……ほんと、バカみたい」
ことねは机に置いたスケジュール表を無言で鞄にしまい、ゆっくりと立ち上がる。
ガタンという椅子の音だけが、室内に響いた。
そして、ドアは静かに閉まった。
──数分後。
空気が入れ替わるように、別の時間が始まった。
「おじゃましまーす! ……あれ?」
パタパタと足音を立てて、部屋のドアが勢いよく開く。
入ってきたのは、Milky♥Tuneの3人──
「……誰もいないじゃん?」
室内に残された残響に、ひなたがぽそっと言う。
「ね~、なんか空気、重くない〜?」
「……扇風機回ってない教室、って感じする」
「いつの時代の教室だよ」
梨子が美南の肩を叩きながら、部屋の奥をのぞきこむ。
「重要な会議、終わったあとなのかな」
テーブルに残された資料を一瞥しながら、梨子がぽつりと呟く。
「あれ、てか、るかは?」
「トイレじゃない~?」
ひなたが小さく肩をすくめた。
続けるようにして、美南がお菓子の袋を取り出しながら付け加える。
「来るとき、急に“待って、あっちに宝箱あるかも”とか言ってどっか行ったし」
「芸能事務所のこと、ダンジョンかなんかだと思ってんのかな」
梨子はスケジュール表の紙をそっとたたみ、真っ白な机の上に置いた。
「……ま、いいや。とりあえず、お茶でも飲む?」
「しょうがないなぁ~。テッテレ~! 缶チューハイ~」
「出すな出すな。こんなところでお酒なんて」
梨子は袋から銀色の缶を取り出そうとしていた美南の手を抑え、横にあったチョコの袋を取り出す。
「ね~、みなちゃん、ひなのジュースは~?」
「全部りこが飲んだよ」
「いや、みな、飲み物全部お酒じゃん! もう! 私、自販機で買ってくるから!」
わずかに笑い声がこぼれる。
その瞬間、さっきまで張りついていた空気が少しだけゆるんだ。
冷えきっていた室内に、ようやく人の温度が戻ってくる。
窓の外、止まりかけていた風が、再びカーテンを揺らした。
けれど、誰も気づかなかった。
──テーブルの隅に、一枚だけ、灰とキャンディのスケジュール資料が裏返ったまま残されていたことに。
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