サマーレコード②
八月十一日。
駄菓子屋の前に着いたとき、
俺は一瞬、自分の目を疑った。
ベンチに座って、ラムネを飲んでいたのは――
いつもと違う白いワンピースじゃない、各務だった。
明るいデニムに、淡いグリーンのブラウス。
麦わら帽子は変わらないのに、どこか大人っぽく見えた。
「あ……藤平くん」
ラムネの瓶から口を離した彼女が、ふっと笑う。
炭酸の泡が、まだ唇の端に残っていた。
「おはよう。時間、丁度だね…」
各務はスマホの画面をそっと見つめて、そう呟いた。
その横顔は、ほんの少し、影を落としていた。
「……うん。11時ぴったり」
俺が返すと、彼女はふわっと微笑んで、スマホをポケットにしまった。
「こういうの、気持ちよくない? 約束の時間に、ちゃんと会えるって」
「……そうだな。なんか、ちゃんと始まる感じする」
「ふふっ、そうそう。それ」
そう言って、各務は俺の方をちらっと見た。
でも、その視線は一瞬だけで、またすぐに空を仰いだ。
まるで、空の奥に“見たくない未来”があるみたいに。
「……ね、藤平くん」
「ん?」
「今日って、なんか…ちゃんと覚えててほしい日かも」
「え?」
「ううん、なんでもないっ」
そう言って、各務はすぐに笑った。
けれど、その笑みはどこか張りつめていた。
まるで、風船をふわりと浮かべながら、
糸の先を、ぎゅっと手に握っているような――
「……その服、似合ってる」
俺がそう言うと、彼女は一瞬だけ目を泳がせて、でもすぐに笑った。
「ほんと? ちょっとだけ、頑張ってみたの」
「なんで?」
「……秘密」
小さく笑って、彼女は視線を逸らした。
そのまま、ラムネをもう一口飲む。
「じゃあ、行こっか。」
各務はそう言って、ラムネ瓶をゴミ箱に入れた。
そのとき、風がふっと吹いた。
肩までの黒髪がさらりと揺れて、頬にかかった前髪を、彼女は指でそっとかき上げた。
何気ない仕草なのに、どきっとするほど綺麗だった。
「……どうしたの? じーっと見て」
「いや……なんでもない」
そう答えながら、俺は自分の言葉が少しだけ熱を持っていることに気づいていた。
けれど彼女は、気づいたふうでもなく、ただ静かに微笑んだだけだった。
その笑顔は、昨日より少しだけ“遠く”を見ている気がした。
そして二人は、蝉の鳴く真昼の道を並んで歩き出した。
商店街の角を曲がったとき、誰かが俺の名前を呼んだ。
「藤平じゃん! おーい!」
声の方を振り向くと、同じクラスの男子二人が手を振っていた。
思わず立ち止まりかけたその瞬間――
「……こっち」
各務が、俺の手を取った。
その指先は、少しだけ冷たくて、けれど迷いがなかった。
俺は、彼女に手を引かれるまま、商店街の奥へと進んだ。
そして、小さなカフェの前で、彼女がふと足を止める。
木製の扉、ガラス越しに見えるアンティークなテーブルと、柔らかな灯り。
どこか昭和の香りが残る、古い喫茶店だった。
「……入ろう?」
各務は振り返らずにそう言った。
俺も黙って頷き、扉を押した。
カラン、と鈴の音。
中には他に客の姿もなく、クラシックが小さく流れていた。
俺たちは、窓際の席に腰を下ろす。
メニューには、「クリームソーダ」や「レトロプリン」の文字が並んでいた。
「なに飲む?」
「……じゃあ、メロンソーダ。」
「私は、ミルクセーキにしよっかな。ね、見て。ここの、カップかわいい」
そう言って微笑む彼女の声は、まるで………………。
注文を終えた頃、俺は聞いた。
「この店、お気に入りなの?」
各務は少しだけ笑って、首を横に振った。
「ううん。今日、初めて来たの」
「……なんで?」
「……“夏の終わり”を探すため、かな」
その言葉は、まるで喫茶店の空気に溶け込むようだった。
「……あのゲーム、まだ続いてたんだ」
そう言った俺に、彼女はくすっと笑って、机の上で指を組んだ。
「うん。むしろ、これからが本番かもよ?」
そう行って彼女はニコッと飾った笑顔を見せてくれた。
「…………夏祭り、一緒に行こ?」
そして彼女は、鞄から小さな手帳を取り出して、俺の方へ傾けてみせた。
開かれたページにはびっしりと文字が書かれていた。
彼女は、その中の一つを指さす。
《・夏祭りに行くこと》
「…………夏祭り、一緒に行こ?」
ドクンっ。確かに俺の心臓が高鳴った。
何でもないひと言のはずなのに、
この静かな喫茶店の空気の中で、それはまるで――
“告白”みたいに響いた。
俺は、ふと各務の浴衣姿を想像していた。
藍色か、朝顔の花模様か、あるいは――
その細い手首に、ほそぼそと揺れる金の鈴。
そんな姿で、縁日の光の中、俺の隣を歩いている各務。
顔を見合わせて、笑ってる。
――想像なのに、胸が、ぎゅっとなった。
「……どうしたの?」
各務が、俺の目を覗きこむようにして首を傾げた。
「あ、いや……浴衣、着るのかなって、ちょっと」
「ふふっ、じゃあ、着ようかな」
そう言って彼女は微笑んだ。
その笑みは、どこか“夏の終わり”を忘れさせるくらい眩しかった。
「そっか……楽しみにしてる」
「うん。わたしも」
それだけで、どこか胸の奥が、
静かに、でも確かに、熱を帯びていくのがわかった。
「……ところで、さっき藤平に声掛けたのってクラスの人?」
各務は、ストローを指先でくるくる回しながら、
何気ないふうを装ってそう聞いた。
けれど、その声には、どこか柔らかな棘があった。
「うん。たぶん、サッカー部のやつら」
「ふぅん」
各務は、それ以上なにも言わなかったけれど、
視線が少しだけ遠くを見ていた。
(……なんだよ)
俺は思わず、彼女の横顔を見つめてしまう。
窓から差し込む光に照らされて、頬のあたりが透けるように綺麗だった。
「……なんか、気になった?」
そう聞くと、各務はふとこちらを見て、少しだけ肩をすくめた。
「ううん、ただ……一緒にいるところ、見られちゃったかなって」
「見られたって、別にいいじゃん」
俺のその言葉に、彼女は一瞬、目を見開いた。
「……そっか」
そう言って、小さく笑った。
――――
ガラン。ガラン。
『ありがとうございましたー。』
俺たちは会計を済ませて店を出た。
優しい声に見送られて、俺たちは店を出た。
外はもう、昼の熱気が少しだけ落ち着き始めた頃だった。
だけど、俺の中には、さっきの彼女の言葉がまだ残っていて、
なんだか、喫茶店の冷房よりも、ずっと涼しい風が心の奥を吹き抜けていた。
「ねぇ…次、どこ行こっか?」
俺の前を歩く各務は、数歩手前で立ち止まり、後ろで腕を組み、振り返りながら言った。
「えっ……じゃ、じゃあ、カラオケ、とか」
見惚れていたものだから、咄嗟に声が裏返って、変な声が出た。
(それにしても、何だよカラオケって。)
各務は一瞬ぽかんとした顔をして、それから――
ふわっと笑った。
「……カラオケ、ねぇ」
そう言いながら、俺の横にすっと並んで歩き出す。
「意外だったな、藤平くんがそういうの、言うなんて」
「べ、別に、行きたいってわけじゃなくて…!なんとなく…そう、なんとなく…!」
言い訳のような言葉が、自分でも情けなくなるほど、
熱を帯びて喉から飛び出していく。
「ふふっ、わかってるって」
各務はそう言いながら、前髪を風で払って、ちらりと俺を見た。
「……でも、それもアリかもね。今日なら、なんでも楽しめそうな気がする」
「なんでも……?」
「うん。だって、今日は“特別な日”だから」
まただ。
さっきの喫茶店でも、彼女はそんなふうなことを言った。
“覚えててほしい日”とか、
“夏の終わりを探しに来た”とか。
意味ありげな笑顔の裏側に、
まだ言葉にならない何かが隠れてる気がするのに、
今の俺には、そこまで届かない。
だからこそ――
その背中を、置いて行きたくなかった。
「……じゃあ、行くか。カラオケ」
「うん」
とびきり明るい声で、各務は頷いた。
でもその笑顔の奥に、やっぱり、ほんの少しだけ――
来た道を、俺たちはゆっくりと戻っていった。
陽の光は少しずつ傾きはじめていて、
さっきまで背中を押していた日差しが、今は道の端っこをそっと照らしていた。
商店街の軒先を抜けると、少し年季の入ったカラオケの看板が見えてきた。
何年も前からあるような、色褪せたネオン。
だけど、どこか懐かしくて、妙に落ち着く場所だった。
自動ドアが開いて、ひんやりとした空気が足元から這い上がってくる。
受付を済ませて、2階の小さな部屋へ。
「――ねっ…歌ってもいい?」
各務は、そう言ってマイクを手に取った。
まるで、マイクじゃなくて、 “何か大切なもの”を抱きしめるみたいに。
その声には、どこか緊張と、少しだけ照れくささが混じっていた。
俺は、ただ頷くしかなかった。
「うん」と言ったかもしれないけど、自分でもよく覚えてない。
各務は、リモコンを操作して、何かの曲を選んだ。
懐かしいイントロがスピーカーから流れ出す。
その瞬間――
彼女の表情が、ふっと変わった。
さっきまでの“笑顔の裏側”に、ずっと隠れていたもの。
今、歌に乗せて、それを少しだけ見せようとしている――そんな気がした。
「……♬」
そして、彼女は歌い出した。
それは、懐かしくて、切なくて、どこか優しいメロディ。
けれど、それ以上に、彼女の声が――
まるで心の奥を、そっとなぞってくるようだった。
スピーカーから流れる音と、彼女の声とが重なって、
部屋の空気が、ふわりと震えた気がした。
各務は、目を閉じて歌っていた。
その表情は、どこか遠くを見つめているようで――
いや、もしかしたら、今ここに居ない“誰か”を思っているようにも見えた。
俺は、じっとその姿を見つめることしかできなかった。
歌詞のひとつひとつが、彼女の心のひだをめくっていく。
最後のフレーズを歌い終えたあと、
各務はふっと息を吐いて、そっとマイクを置いた。
「……どうだった?」
そう問いかける彼女の声は、
さっきより、ほんの少しだけ、震えていた。
「めっちゃ、上手かった。」
俺のその言葉に、彼女は一瞬、驚いたように瞬きをした。
「……そっか。」
ほんの少しの沈黙のあと、
各務は、そっと笑った。
それは、さっきまでのどんな笑顔よりも、
たぶん一番、素の彼女に近いものだった。
「……よかった。変じゃなかった?」
「変なわけないだろ。てか、めっちゃ沁みた。なんか……夏、きた、って感じ」
彼女は、ちょっとだけ照れくさそうに下を向いて、
そしてまた、俺の方を見た。
「……実はね、あの歌――小さい頃、お父さんがよく口ずさんでたの。
たぶん、もう今じゃ忘れてるかもだけど……夏祭り…。」
彼女の言葉はそこで切れた。
でも、それで十分だった。
固まった雰囲気を変えようと、
俺はそそくさと選曲して、マイクを取った。
「……じゃあ、次は俺の番、ってことで」
画面に映るイントロの映像と、
懐かしい歌のメロディが流れ始める。
選んだのは、いつか小学校の学芸会で歌った、
ちょっと似合わないけど、どこか無性に心に残ってた曲だった。
「♪――」
マイク越しの自分の声が、思ってたより震えてることに気づく。
けど――その隣で、各務が笑ってた。
さっきよりずっと柔らかく、
ほっとしたような、でもちょっとだけ泣きそうな顔で。
やっぱり、歌って、言葉よりもずるい。
“今の気持ち”をごまかすのにも、
“言えないこと”を届けるのにも、ぴったりすぎる。
「……すごいね!。上手だったよ……ハナミズキ?だっけ。」
各務が手を叩いて笑う。
けどその声には、ほんのかすかに、震えが混じってた。
「……あのさ、藤平って、
“ちゃんと伝える”の、得意じゃない?」
唐突なその問いに、俺はきょとんとしてしまった。
「へ? なにが?」
「……言葉じゃなくてさ、
目とか、声とか、そういうので……“ちゃんと来る”んだよ」
彼女はそう言って、うつむく。
窓際から差し込む西日の中、髪がきらきら光ってた。
【「だから……今日、誘ってよかった」】
俺は返す言葉を持たずに、ただ小さく頷いた。
そうしないと、胸の奥が変なふうにざわついてしまいそうで。
ただ、彼女の今の言葉がどこか気になり、胸に残っていた。
***
曲が終わると、しばらくふたりとも黙っていた。
けれど、その沈黙は、居心地の悪いものじゃなかった。
ガラガラ、とドアを開けて外へ出ると、
商店街には、夕暮れの光が静かに降りてきていた。
街灯がひとつ、またひとつと灯っていくその下で、俺たちは並んで歩いた。
「ねぇ……もうすぐ、夏休みも半分終わるね」
ぽつりと各務が呟いた。
けれど、その言葉は、どこか遠くを見ているみたいだった。
「うん。あっという間に半分だな」
「なんか、今年の夏は――いつもと違った気がする」
「それ、俺も思ってた」
「……ふふ。でも、”ゲーム”はまだ続けるよ。最後まで」
「 何をお願いするか考えとくか。」
何気ない言葉のやりとり。
でもその裏にある、言葉にならない想いが、どんどん大きくなっていくのを感じた。
ふと、各務が足を止める。
小さな雑貨屋の前で、色とりどりの風鈴が揺れていた。
「……音、きれい」
「ほんとだな」
チリン、チリン、と風が吹くたび鳴るその音は、
どこか“季節の終わり”を知らせているようだった。
しばらくふたりで、その音に耳を傾けたあと――
「藤平。夏祭り、ほんとに、一緒に行ってくれる?」
「……ああ。行こう。絶対に」
そう答えると、各務は少しだけ照れたように、けど、
今日いちばん嬉しそうな笑顔を見せた。
***
「夏祭りは28日。夏休みのホントの最後……か。」
ベッドの上で寝転がりながら、スマホのカレンダーを見つめていた俺は、ひとり呟いた。
夕暮れの光がカーテン越しに揺れて、部屋の壁に淡い茜色を落としている。
「……でも。もう、”答え”は決まってるんだよな。」
各務の誘い。カラオケでの笑顔。風鈴の音。
あの一つひとつの瞬間が、俺の中で静かに、でも確かに“想い”として形になっていた。
言うか、言わないか。
それだけのことなのに、胸の奥がずっとざわついてる。
そんな時――スマホが震えた。
《LIME:各務》
《写真が1枚送信されました》
開いてみると、そこには鏡の前で照れくさそうに笑ってる各務の自撮り。
黒髪だったはずの髪が、ほんのり茶色に染まっていた。
(……染めたんだ)
驚いたけど、それ以上に、その“新しい彼女”が眩しく見えた。
俺は、指が迷う前にメッセージを打ち込んでいた。
《似合ってるじゃん。めっちゃ》
送信――。ためらわなかった。
なぜか、それが大事な気がしたから。
……しばらくして、俺は立ち上がり、リビングに向かった。
「なあ、母さん。家にさ、ブリーチとか染め粉、あったりする?」
「は? あんた。染めんの?」
「……うん。ちょっとした、気まぐれってやつ」
そう言って、笑いながら受け取った箱。
でも、本当は――彼女と並んで、ちゃんと似合う自分でいたかっただけだった。
***
次の日の夕暮れ、俺たちはいつもの駄菓子屋のベンチに座っていた。
夏の風が髪を揺らし、蝉の声が遠くから聞こえる。
「ねぇ、藤平……あれ?」
各務がふいに、じっと俺の頭を見つめる。
「どうした?」
振り返ると、彼女の目が少し大きく見開かれていた。
「その髪……染めたの?」
小さな声で言う。
俺は、ちょっと恥ずかしくなって、顔を赤くしながら手で頭を撫でた。
「バレたか……」と苦笑い。
「うん、びっくりした。なんか、ちょっと大人っぽくなったね」
彼女はにっこりと笑った。
「マジで? ありがとう、各務」
思わず嬉しくなって、つい言葉が出た。
「でも、なんか……ちょっと変な感じ」
照れながら首をかしげる彼女。
「変な感じ?……各務とお揃いじゃん?」
からかうように聞くと、彼女は「もぅーーー!」と顔を真っ赤にして逸らした。
それでも、そんなやりとりが、どこか幸せで楽しかった。
そこからの2週間は、まるで夢みたいだった。
日差しの強いある日は、コンビニでアイスを買って、
自転車の後ろに各務を乗せて、海までひたすら走った。
「わー! 危ないってば!」「バランスくらい取れよー!」
笑い声が、潮風にさらわれていく。
別の日は、誰もいない神社でおみくじを引いたり、
こっそり制服のまま、人気のない学校に入り込んで、プールに飛び込んだり。
家に呼んだり、行って、ゲームをしたり、漫画を読みながらゴロゴロしたり。
夏の陽射しのなかで、ただ隣にいるだけで、時間が溶けていった。
だけどその間――
確実に”夏の終わり”が近づいていた。
藤平にとって、始まりで覚悟の日。
その変化は淡くも、確かな変化だった。
各務と過ごす時間の中で、心のどこかにいつも燻る予感があった。
「終わらせたくない」
けれど、終わらせねばならない何か。
その狭間で、彼の胸は強く締めつけられていた。
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