日常のはざまで
第1話:科学のためなら、羞恥心は無視していいんですか!?
「―――次、43本目、行きます!『魔法少女フェアリーミント』の『ミントタクト』です!」
「うぅ……もう、どれも同じに見えてきました……」
事件から一ヶ月と数日が過ぎた今、俺たちの日常は、この奇妙な実験の繰り返しだった。
俺の職場は第7ブロックから、第3ブロックに代わってもう1か月。SPトレンドシュアの社屋はすでに、時空間物理学部門が接収して、観測機器を運び込んで整備をしているらしいと聞くが、いまだに俺たちはこの無機質な実験室から出ることはできていない。
目の前では、うんざりした顔のリュナが、緑色でミントの葉を模したプラスチックの杖を構えている。
その隣では、如月博士が子供のように目を輝かせながら、観測機器の数値を睨んでいた。
(……それにしても、なんで俺がこんなことを)
ふと、一ヶ月前の、牧原先輩との面談を思い出す。
あの激動の一夜が明け、俺とリュナの処遇が正式に決定された、あの日のことだ。
【回想】
「―――まず、君の処遇からだ、愁也」
牧原先輩は、分厚い辞令書を俺の前に置いた。
「君には、SPトレンドシュア社から、我々の時空間物理学部門へと正式に異動してもらう。役職は『リエゾン』。つまり連絡・調整役だ」
「リエゾン……ですか?」
聞いたこともない役職だ。
「そうだ。君は、科学者でも軍人でもない。だが、その『ただの会社員』としての視点と、極限状況下で見せた判断力、そして何より、リュナ君との信頼関係。それらは、我々専門家にはない、唯一無二の価値だ。君には、科学者と魔法使い、そして上層部の間を繋ぐ、唯一の結節点になってもらう。正式異動は、SPトレンドシュアを終了させてからだから、もう少したってからだな」
その、あまりにも重い役割に俺が言葉を失っていると、先輩は隣に座るリュナに向き直った。
「そして、リュナ君。君にも、我々のチームの一員として、正式な役職についてもらいたい。役職は『特務技術顧問』。君が持つ魔法の知識と技術は、我々の科学を発展させる上で、何物にも代えがたい」
「……こもん?」
聞き慣れない言葉に、リュナが首を傾げる。
「ああ、アドバイザー、専門家、といった意味だ。もちろん、これは君への強制ではない。だが、もし引き受けてくれるなら、君の働きに対し、我々はこの世界のルールに則って、正当な『報酬』を支払うことを約束する」
『報酬』
その言葉を聞いた瞬間、リュナの碧眼が、これまでにないほど大きく見開かれたのを、俺は今でもはっきりと覚えている。
彼女の世界では、力は血筋によって与えられ、働きは奉仕と同義だったのかもしれない。自分の知識や技術が、身分に関係なく評価され、対価として支払われる。
その概念そのものが、彼女にとって、この世界で生きていくための、最初の希望の光になったのだ。
そう夢を抱いていたはずなのに……。
【回想終了】
「来たれ、炎の精霊よ! フレイムアロー!」
もはや詠唱も投げやりなリュナの手から放たれた炎が、観測用の壁に着弾する。
「素晴らしい! ミラクル・ラパンの杖に比べ、出力は73%ですが、マナの安定性は8%向上しています! この『妖精』という概念が、リュナ顧問の魔法の方向性と親和性が高いのかもしれない!」
ハイテンションで分析する博士の横で、俺は溜め息をついた。
屋上でリュナと「五十本以上ある」なんて軽口を叩いていたが、まさか本当に一本ずつ検証作業をすることになるとは。
これも、リエゾンの仕事、か。
「博士、そろそろ休憩にしませんか。リュナさんの集中力も限界みたいですし」
「むぅ、しかしデータは連続して取った方が……」
「メンタルケアもリエゾンの重要な任務です。それに、焦って取ったデータに意味はありません。昔、俺もそれで痛い目を見ましたから」
俺がそう言うと、博士は渋々といった様子で頷いた。
ラウンジで一息ついていると、案の定、如月博士が満面の笑みで、巨大なコンテナをもう一つ押してきた。その嫌な予感に、リュナの顔がひきつる。
「杖による『概念』の差異が、魔法の出力に影響を与えることは分かりました! そこで、次のステップです!」
博士が意気揚々とコンテナの蓋を開ける。中から現れたのは、色とりどりの、大量のフリフリとした布地だった。
「杖の『概念』と、術者の『衣装の概念』に相乗効果はあるのか! これを検証しない手はありません! さあリュナ顧問! まずは、この『魔法少女フェアリーミント』の衣装に着替えて、もう一度実験を!」
「絶対に嫌です!!」
リュナの絶叫が、ラウンジに響き渡った。
「もうフリフリはこりごりだって言ったじゃないですか! 大体、こんな格好、したくありません!」
「な、なぜです!? これも科学的探求のため……!」
「科学のためなら、人の羞恥心は無視していいんですか!?…それに嫌なんです!こんな格好してたら、みんなから狙われちゃいます!」
涙目で訴えるリュナと、本気で理由が分からないといった顔の如月博士。
俺は、二人の間に割って入り、深く、長いため息をついた。
「博士。今日の実験は、もう終わりです」
「し、しかし愁也さん!」
「これは業務命令です。リエゾン担当として、プロジェクトメンバーの心身の安全を確保する権限が、俺にはあります」
俺が初めて使う強い口調に、博士は一瞬怯んだが、やがてしょんぼりと肩を落とした。
その背中を見送りながら、俺は頭を抱えた。
とはいえ、あの様子だと明日も元気に実験だろうなぁ……。
何とか気分転換をさせないとまずそうだし……。そうだ!
「……リュナさん」
俺は、まだ少し怒っている彼女に向き直った。
「すまない。気分転換に、どこかへ出かけないか? そういえば、君の身の回りのものも、まだ全然揃ってなかっただろう。買い物に行こう」
俺の提案に、リュナは少し戸惑いながらも、こくりと頷いた。
早速、牧原先輩に外出許可の連絡を入れると、すぐに「分かった。少しそこで待っていろ」と返信があり、程なくして先輩本人がラウンジに顔を出した。
「愁也から話は聞いた。外出、許可しよう。……それと、リュナ君」
先輩はリュナの前に歩み寄り、一枚のカードと、薄いデータ端末を差し出した。
「遅くなってすまない。君の特務技術顧問としての、先月分の報酬だ。これが君の給与口座に紐づくカード、こっちが明細だ。確認してくれ」
「え……わ、わたしの……ほうしゅう……」
リュナはおそるおそるそれを受け取ると、紙に印刷された数字を見て、目を白黒させた。
こちらの数字も少しだけだが、わかるようになったらしく0がいっぱいついているから桁数が多いこともわかるだろう
「こ、こ、こんなにたくさん……!? 金貨、何枚分ですか……!?」
「貨幣価値が違うから単純比較は難しいが、君の働きに対する正当な評価だ。受け取ってくれ」
そう言ってにやりと笑うと、先輩は「あまり遅くなるなよ」と言い残して去っていった。
リュナは、まだ信じられないといった顔で、カードと紙を交互に見つめていた。
工業区域に隣接する物々しいゲートとは逆の、研究所エリアに繋がる入口が、どうやら正面玄関らしかった。
重厚なセキュリティゲートが音もなくスライドすると、むわっとした外気が流れ込んできた。
「わっ……! これが、外の『空気』……!」
空調で管理された施設内とは全く違う、生暖かく湿った風に、リュナは感動したように両手を広げた。
そして思い切り空気を吸い込み、思いっきりむせた。
「げほっ、げほっ……!」
「おいおい、いきなり吸い込みすぎるなよ」
俺は苦笑しながら、むせ返るリュナの背中をさすってやった。
一ヶ月ぶりの外の世界は、彼女にとって何もかもが新鮮な驚きに満ちているらしい。
……まああの時は、魔獣に追われているか、トラックで前線に行くかのどっちかだったからな。
研究所エリアは、ガラスと白い金属で構成された近代的な建物が整然と並ぶ、静かな場所だ。
だが、リュナにとっては巨大なテーマパークにでも来たようなものらしかった。
「愁也さん! この木々、もしかして全部ゴーレムか何かが見張っているのですか? 土もないのに、こんなに青々として……形まで揃っているなんて!」
「はは、ゴーレムじゃなくて科学だな。下に巨大なプランター、まあ植木鉢が埋まってて、水や栄養を自動で管理してるんだろうな」
「自動で水やりと栄養管理を!? なんて怠惰な……いえ、効率的な! 庭師の人たちが見たら、仕事がなくなるって大騒ぎですね!」
目をキラキラさせながら、等間隔に並んだ街路樹を見上げる。
時折すれ違う白衣の研究者たちは、そんなリュナの姿を見て、一様に「ん?」という顔をした。
子供、ましてやはしゃいでいる少女など、このエリアでは絶滅危惧種より珍しい。
子供がいても、若くして博士号を取っているような子供じゃない子供しかいないから、学生に近い年齢の少女がいるだけでも珍しい。
彼らは二度見し、ひそひそと何かを囁き合っているが、当の本人はそんな視線には全く気づいていない。
「すごい……すごい……! 私たちの世界と、理(ことわり)からして全然違います!」
落ち着きなくキョロキョロするリュナの隣で、俺は少しだけ気まずい思いをしながら歩く。やがて、無機質な建物群の向こうに、空へと続くガラス張りの駅舎が見えてきた。
「しゅ、愁也さん! あれは! 道が空に浮いています!?」
リュナが、この世の終わりのような顔で、空中に架かる白いレールを指さした。
「落ち着けって。あれがモノレール。こっちの世界の馬車みたいなもんだよ」
「ば、馬車……!? あんなに高いところを、鉄の竜か何かが走るのですか!?」
「竜じゃなくて電車だって……ほら、行くぞ」
俺はもはや説明を半ば諦め、彼女を連れて駅舎へと続く自動スロープに乗った。
「ひゃっ!?」
足元が勝手に動き出したことに驚き、リュナは甲高い悲鳴を上げて俺の腕にガッシリとしがみついてきた。
「だ、大丈夫だから! 掴まってれば前に進むだけだって!」
改札ではさらに一悶着あった。
光るパネルに戸惑うリュナにIDカードの使い方を教えるが、かざすタイミングが早すぎたり遅すぎたりして、ゲートが開かずに何度も首を傾げている。
俺が後ろから手伝って、ようやく二人でホームへとたどり着いた。
「うわぁ……!」
ホームに出た瞬間、リュナはまた感嘆の声を上げた。
壁一面の強化ガラスの向こうに広がる都市のパノラマに、すっかり心を奪われている。
「すごい……空に浮いてるみたいです! もし、この床が抜けたら……!」
「抜けないから大丈夫だって。ほら、来たぞ」
滑るように静かに、流線形の白い車体がホームへと入ってくる。
音もなく停車し、シュー、と心地よい音を立ててドアが開いた。
「……魔法、みたいです」
呆然と呟くリュナを促し、俺たちは車内へと乗り込んだ。
ふかふかの座席に「おお……」と声を漏らすリュナを窓際に座らせる。
やがてドアが閉まり、ふわりと体が浮くような感覚と共に、モノレールは商業区画へと滑り出した。
モノレールの窓から流れる未来的な都市の風景に、リュナは言葉を失っていた。
やがて到着した商業区画の駅を降り、巨大なショッピングモールに足を踏み入れると、その戸惑いはさらに大きくなった。絶え間なく流れる電子音楽と人々の喧騒。頭上を滑るように飛んでいく広告ドローンの立体映像が、一瞬、リュナの碧眼を七色に染めては消える。
すれ違う人々の姿も、彼女の常識を揺さぶった。揃いの制服を着た学生たちが、楽しそうに笑いさざめきながら通り過ぎていく。虚空を見ながら何かをぶつぶつと呟き、突然頭を下げながら、それでも誰にもぶつからずに歩くスーツ姿のサラリーマン。浮遊するカートに山のような荷物を載せ、はしゃぐ子供を追いかける家族連れの姿もあった。誰もが自分の暮らしを当たり前の顔で生きている。故郷の市場の、もっと切実で、誰もが顔見知りだった喧騒とは全く違う、巨大で、無関心で、それでいて平和な人の波だった。
そしてモールをめぐる中で、衣料品店で同じデザインの服が、大量に、そして信じられないほど安価に売られていることに、彼女は衝撃を受けていた。
「私の故郷でも、市場で服は買えます。でも、一着一-着、職人さんが手で縫うから……こんなにたくさんの服が、並んでいるなんて、初めて見ました。それに、この値段は……間違い、ですか?」
昼食に立ち寄ったフードコートで、その衝撃は決定的なものになった。俺は、手軽に食べられるこちらの文化の象徴として、一番人気のハンバーガーセットを注文した。
「ほら、これがこっちでは人気の食事だ。温かいうちにどうぞ」
だが、リュナは、パンの間に挟まれた肉の塊と、それを手で掴んで食べようとする俺の姿を見て、わずかに眉をひそめた。
「……手で、ですか?」
彼女の、悪意のない、しかし、あまりにも真っ直ぐな指摘に、俺はハンバーガーを持ったまま固まった。
「ナイフとフォークを使うのが礼儀だと、母には教わりましたし、こんな風に、色々なものを一度に挟んでしまうなんて……学院の友人たちが見たら卒倒します!」
(そっか……そうだよな……)
俺が良かれと思って教えた「当たり前」が、彼女の「当たり前」を、無神経に傷つけてしまったのかもしれない。俺は、この世界の常識が彼女にとっては奇跡なのだと知ると同時に、俺自身の常識もまた、決して万国共通ではないのだと、改めて思い知らされた。
結局、リュナの分は彼女の故郷の食事に近い、シンプルなローストチキンとパンを改めて注文し直し、ハンバーガーセットは俺の腹に収まることとなった。
買い物を終え、施設に戻る途中、リュナは自動販売機の前で足を止めた。
「試しに、それで何か買ってみるか?」
俺が指さしたのは、先ほど牧原先輩から渡されたカードだった。
「え? こ、これで……?」
「この自販機はカードが使えるんだ。好きなものを選んで、カードをそこにタッチしてみろ」
リュナは、しばらく戸惑っていたが、やがて意を決して、一つのボタンを押した。そして、宝物を扱うかのような手つきで、決済端末に自分のカードをそっと触れさせる。ピッ、という短い電子音と共に、ガコン、と音を立てて取り出し口に缶が落ちてきた。出てきたのは、炭酸飲料だった。
リュナは、その缶を両手で大事そうに受け取った。
「愁也さん、今日の服や食事のお金、ここから……!」
慌ててカードを差し出す彼女の手に、俺は軽く手で制した。
「いいんだ。その気持ちは嬉しいが、それは違う。君がこの世界で生活するための準備だから、経費で落ちる。組織が必要経理として出すものだ。君の報酬じゃない」
「で、でも……」
「その報酬は、君が君自身の意思で、好きなものを買うために使いなさい。……だから、今君が買ったその飲み物が、君が自分の力で手に入れた、最初のものだ」
プルタブの開け方を教え、彼女が初めてそれを口にした瞬間。
「ぷはっ!?」
炭酸の刺激に驚き、むせるリュナを見て、俺は思わず笑ってしまった。
最初は戸惑っていたリュナも、やがてその奇妙な味と感覚を楽しみ始める。
管理された食事ではなく、無数にある選択肢の中から自分で選び、自分で買ったものを口にする。そのささやかな「消費の自由」が、彼女の心を少しだけ軽くしているのが、俺にも分かった。
宿舎へ彼女を送ると、リュナは買ってもらった新しい服や日用品を、ベッドの上に広げ、飽きることなく眺めている。その傍らには、一枚のカードが大切そうに置かれていた。
その姿を見ながら、俺は、この少女を守り、いつか故郷に帰すという責任の重さを改めて感じると同時に、彼女との間に、確かに「同僚」としての絆が芽生え始めていることを、実感していた。
だが、問題は何も解決していない。
仕事に戻れば、あの衣装の山が、まだ俺たちを待っているのだ。
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