第8話:壊れた日常と、閉ざされた心

 俺たちの奇妙な共同生活が始まって、一週間が過ぎた。

 リュナとのコミュニケーションは、厚いガラス越しに必死に叫んでいるような、もどかしいものだった。

 当初、全くの無力だったフローラの翻訳機能は、この数日間で俺とリュナの短いやり取りをデータとして蓄積し、ようやく単語レベルの概念を繋ぎ合わせられるようになってきていた。


 その成果は、彼女のベッドのヘッドボードに埋め込まれた、小さなスピーカーから再生される。

「朝だ。……食事、持ってきた」

 俺がそう話しかけると、スピーカーから感情のない、平坦な合成音声が響く。

『時間……朝。食料……運搬……完了』

 最初の数日、リュナはこの奇妙な声にびくりと肩を震わせていたが、今ではもう気にする素振りも見せない。

 ただ、俺が「食事」という単語を口にした時だけ、その虚ろな瞳が、一瞬だけトレーの上へと動く。

 彼女は困惑しながらも、この無機質な声が「そういうもの」なのだと、諦めに似た形で理解し始めていた。


 だが、それは対話と呼ぶにはあまりに一方的だった。

 彼女が何かを話しても、フローラは『解析不能』と返すだけ。

 まるで、APIドキュメントのない外部システムを、手探りで叩いているような気分だった。


 リュナは硬い殻に閉じこもったまま、その瞳は凍りついた湖面のように、何の感情も映さない。

 ただ黙って食事を口に運び、時折、司令室のメインスクリーンに映し出される、かつて俺が働いていたビル――今は異形の巣窟と化している――を、虚ろな目で見つめているだけだった。


 そのスクリーンに流れるニュースは、日を追うごとに深刻さを増していた。

『第7ブロックの封鎖は継続中。ビルから出現する小型の敵性存在に対し、防衛部隊は依然として苦戦を強いられています』

 それが昨日のニュース。


 そして今日の昼、食堂の大型モニターに映し出されたのは、さらに絶望的な映像だった。

『速報です! たった今、第7ブロックの防衛ラインが突破されました! 現場の映像です!』


 カメラが映し出したのは、オオカミほどの大きさの、全身が黒い甲殻で覆われた四足の獣だった。自動迎撃タレットの銃弾を弾き返し、分厚い防護壁をいともたやすく引き裂いている。


 ……このままじゃダメだ。埒が明かない。


 俺は焦っていた。外の戦況はどんどん悪化し、リュナの心は閉ざされたまま。

 この状況を打開するには、何らかのブレークスルーが必要だった。

 俺は、一つの賭けに出ることにした。


 その日の午後、俺は一枚のデータパッドを持って、リュナの部屋を訪れた。


「……リュナさん」

 俺は彼女の名前を呼び、ベッドのそばに膝をつく。

 彼女は、虚ろな目で俺を一瞥するだけだ。


 俺は、データパッドのディスプレイを彼女に見せた。そこには、俺が記憶を頼りに描いた、拙いイラストが表示されている。

 あの巨大な、黒曜石のような体表を持つ怪物。

 ビルから飛び降り、俺を追いかけてきた、悪夢の化身。


 俺は、イラストの怪物を指し、次に自分自身を指さした。

 そして、問いかけるように、彼女の顔を覗き込む。

(俺は、こいつと戦ったんだ。こいつは、一体何なんだ? 教えてくれ)

 言葉にならない、必死の問いかけ。


 その瞬間、リュナの時間が、凍りついた。

 彼女の瞳が、俺が描いたイラストに釘付けになる。

 虚ろだった碧眼が、恐怖に大きく、大きく見開かれていく。


「―――っ!」

 彼女の唇から、声にならない悲鳴が漏れた。

(しまった……!)

 俺の行動は、良かれと思って踏んだ地雷だった。

 彼女の心の、最も触れてはいけない傷口を、俺は無神経にこじ開けてしまったのだ。



 その夜、リュナは悪夢という名の嵐に囚われていた。

 医療区画のモニターが彼女の異常な心拍数を検知し、俺と牧原先輩が駆けつけると、彼女はベッドの上で汗びっしょりになり、見えない何かから逃れるように身をよじっていた。


「……ohi……ohii……! ansustsfa……ansustsfa……!」


 そのうわ言は、壊れた映写機が映し出す、悪意に満ちたフィルムの断片だった。


【リュナの悪夢】


 鬱蒼とした森の中。月明かりだけが頼りの暗闇を、私は必死に走っていた。

 胸に抱えた魔導書が、ずしりと重い。


『リュナ=ルオフィス君。君には、この魔導書の護衛任務における管理責任者となってもらう』

 学院長室での、あの重々しい声が蘇る。

 護衛には、王宮課程の優秀な生徒が8名、それに学院の教師まで付くという、破格の任務だった。

 私のような一般課程の生徒がなぜ、という疑問は、期待と責任感の前に押し流された。


 その仲間たちは、もういない。


「……小娘。その魔導書を渡せ」


 背後から現れた三人の男たち。獣のような耳を持つ男が、嘲るように私を値踏みする。

『一般課程の、ただの学士の嬢ちゃんよ。よく護衛になんてなれたもんだ』


「来ないで!」

 私は最後の力を振り絞り、炎の魔法を放つ。

「フレイムアロー!」

 炎が夜の闇を走り、男たちの足元で炸裂した。その隙に、私は再び森の奥へと駆け出す。


『リュナ、行け!』

 背後で、王宮課程の先輩の声がした。

『ここは俺たちが食い止める! 君だけでも、生きて……!』

 悲鳴と、金属が引き裂かれる音。そして、全てを飲み込むような獣の咆哮。


 違う。違う、そうじゃない! 守られるべきなのは、私じゃない。

 騎士になるはずだった、みんなの方なのに。

 ただ、特殊魔法が使えるというだけで、この任務に選ばれた私のせいで……。

 運が悪かった、それだけ。でも、そのせいで、みんなが……!


 どれだけ走っただろうか。体力の限界を、とっくに魔法で補っている。

 その時、胸元で鈍く光っていた懐中時計のようなマナストーンが、キーン、という甲高い音を立て始めた。

(まずい……暴走する……!)

 膨れ上がった魔力が臨界点に達し、一瞬、世界から音が消えた。

 次の瞬間、全てを飲み込む白い閃光が、森を昼に変えた。


 衝撃波に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。息が詰まり、視界が明滅した。

 どれくらいそうしていただろう。焦げ付いた匂いと、おびただしい数の木の倒れる音で、私は意識を取り戻す。

 目の前には、地獄が広がっていた。爆心地となった私の周りだけが不自然に開け、その周囲の木々は根こそぎなぎ倒されている。

 そして、その瓦礫の隙間から、見覚えのある制服の切れ端が見えた。


 ガサガサ、と音がする。

 絶望の中、顔を上げると、倒れた木の向こうから、あの男たちの一人が姿を現した。一番背の低い、しかし不釣り合いなほど巨大な鉄塊のような剣を持った男。

「……見つけた」

 男は、ボロボロになったマントを揺らしながら、無感情に剣を振り上げた。

(……もう、終わりなんだ)

 走馬灯のように、仲間たちの顔が浮かぶ。ごめんなさい、ごめんなさい……。


 だが、死を覚悟した、その瞬間。

 私は、ほとんど無意識に、手元に転がっていた魔導書を盾にしていた。


 キィン!


 甲高い金属音。魔導書の表面から、淡い光の膜が立ち上り、男の振り下ろした鉄塊を、まるで分厚いガラスのように受け止めていた。

 剣は、その表面に激しい火花を散らすだけで、一ミリたりとも本を傷つけることができない。

「なっ……!?」

 男の驚愕の声が、森に響いた。


「……う……あ……」

 リュナの目から、涙が溢れていた。

 自分だけが生き残ってしまった罪悪感が、彼女の心を苛んでいる。


 俺は、どうすることもできず、ただ彼女のそばに立ち尽くす。牧原先輩が、鎮静剤を投与しようと準備を始めた。


「……待ってください」

 俺は、それを手で制した。

 そして、リュナのベッドのそばに膝をつき、彼女の肩にそっと手を置いた。びくり、と彼女の身体が跳ねる。


「大丈夫だ」


 俺は、できるだけ優しい声で、ゆっくりと語りかけた。

 スピーカーが、俺の言葉を無機質な音声に変換する。

『……問題……否定……』


「ここは、安全だ。もう、誰も君を傷つけない。嵐は、過ぎたんだ」

『……現在地……安全。……対象……危害……否定。……事象……終了……』


 言葉の意味は、きっと伝わらない。でも、伝えるしかなかった。

 俺の言葉が届いたのか、あるいは手のひらの温もりが伝わったのか。

 リュナの体の強張りが、少しだけ、ほんの少しだけ、緩んだように思えた。

 彼女は、涙に濡れた目を開け、俺の顔をじっと見つめる。

 その瞳には、まだ恐怖の色が濃く浮かんでいたが、その奥に、小さな、小さな問いかけのような光が宿っているのを、俺は見逃さなかった。


 夜が明けるまで、俺は彼女の手を握り続けた。

 外の世界では、異形の獣たちが街を壊し続けている。俺たちの世界の常識も、科学も、まだこの悪夢の前では無力なままだ。

 だが、この夜を境に、俺と彼女の間にあった見えない壁は、確かに、少しだけ低くなった気がした。

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