第4章:因果律の崩壊 — The Collapse of Causality —
空気が、異様に澄んでいた。
それは「澄んでいる」というよりも、「粒子が沈黙している」と言った方が正確だった。
神代拓真は実験中枢管制室への廊下を歩きながら、首筋にまとわりつくその沈黙の感触を振り払うように、無意識にシャツの襟元を正した。
曇天に切り取られたガラス窓の向こうで、山の稜線がどこかぼやけている。
足音が控えめに反響する中、向こうから姿勢のいい男が歩いてきた。
「おう、神代博士。今日も難しい顔してるな」
軽く片手を上げながら、伊吹一等陸佐が声をかけてきた。背筋を伸ばし、まるでどんな天候でも“凛と立っている”ような風格。その物理的な存在感すら、ここではひとつの“装置”のように見えた。
「伊吹さんこそ、余裕そうですね」
拓真は微笑を返したが、心の奥では波紋が広がっていた。
彼のような人間とは、根本から何もかもが違う――
そう思わざるを得なかった。
命令系統、上下関係、対処優先順位、部下への接し方。すべてが明瞭で、曖昧さを許容しない“世界”に彼は生きている。
自分のように、定義を疑い、前提をずらし、観測者として迷い続けるような人間とは、あまりにも違う。
「頼むぞ、理論主任。お前らが無事に穴を開けりゃ、俺らも次に進める」
「……ええ、こちらの役目は、きっちり果たします」
そう言うと伊吹は軽く敬礼し、去っていった。伊吹が去ったあと、拓真はしばし足を止めた。
振り返ることはしなかった。ただ、背中に残った言葉の重さを反芻する。
怖れているのだ。
伊吹という人間が、ではない。彼のように“真っ直ぐ進める”人間の存在そのものに、どこか畏怖がある。
彼は疑わない。揺らがない。たとえそれが人知を超えた力であっても、最前線に立って向き合う準備ができている。
その確信が、ときに羨ましく、ときに眩しすぎる。
自分にはきっと、“その強さ”は持てない。
だが同時に――
彼のような人間がここにいることで、世界が均衡を保っているとも、心のどこかでわかっていた。
「……ああいう人間がいるからこそ、僕たちは迷っていられる」
拓真はそう呟いて、実験棟の自動ドアへと向かっていった。
廊下の照明は通常の白色蛍光だが、わずかに青白く見えた。光の温度が変わったわけではない。ただ、周囲の反射率が異常に均一で、影がまるで“貼り絵”のように感じられた。
「空間の透明度が高すぎる……?」
拓真はぼそりと呟いた。音が吸い込まれるように消え、耳の奥に鈍い圧がかかったような感覚が残った。重力センサーの異常だろうか? それとも、自律神経の誤作動か。どちらにせよ、科学者としてそれを“体感的違和”で済ませるわけにはいかなかった。
実験中枢管制室に入ると、室内はほとんど無音だった。
いや、稼働音はある。モニター、演算ノード、光量子変換炉──全てが起動している。だが、それらが発する音が、空間に届く前に“どこかで緩衝されている”ような奇妙な静けさだった。
「拓真さん。データ収束率、98.71%。残り3分で最終位相に到達します」
ナオミの声だけが、唯一この空間で“生きて”いた。
彼女の声には張りがあったが、その目は疲弊と緊張の淵にあった。
如月ナオミ。量子演算主任技師。数字に対しては完璧な精度で応じるのに、人間関係の揺らぎにはたちまちノイズを走らせるような、不器用な女性。
拓真は彼女を“評価”していた。ただの技術者としてではない。量子演算という観測者の介在が不可避な領域において、彼女の思考のクセや判断の速さは、時として自分の理論すら補正してくれる。
それは、論理的な意味での信頼。
でも、それだけではなかった。
「君は……なぜ、そんなに僕に似てるんだろうな」
以前、小さな独り言のつもりで呟いたことがある。
ナオミは聞こえていなかったふりをしたのか、本当に聞いていなかったのか、微動だにせず演算データをチェックしていた。
拓真は彼女に、似たものとしての親近感と、理解者になれないことへの距離を同時に感じていた。
彼女は、自分と同じように“迷っている”側の人間だ。だが、自分と違って、それを外に出すことを極端に怖がっている。
だからこそ、彼女がときおり見せる一瞬の眼差し――
まるで、自分を観測することすら恐れているかのようなまなざしに、拓真は何か言葉を失うのだった。
「ありがとう。……位相パラメータ、再確認。リソース分配、オーバーフローしてないか?」
「……確認しました。偏差、±0.0002以下。誤差範囲内です」
「よし。実行続行」
拓真はメインパネルの前に立ち、指先で数式をなぞるように演算モデルを再確認した。
頭の中では、幾何学の海が広がっていた。次元間の相互作用、時空座標のベクトル変位、情報重力場の干渉モデル。すべてが、理論の枠内にあった。
……それでも、違和感は拭えなかった。
この沈黙。この空間の密度。この“整いすぎた演算結果”。まるで、すべてが何かを「待っている」ようだった。
「……ナオミ」
「はい?」
「さっき、主演算フレームのバックアップループ、いつ自動切り替わった?」
ナオミは一瞬黙り、ログを確認して答えた。
「……二十三秒前です」
「タイミング、早すぎる。理論値では起動五十秒前のはずだ」
「閾値を越えていたわけではありません。閾値判定関数は“正常”を返しています」
「――“正常”とは、誰の定義だ?」
その一言に、ナオミが言葉を詰まらせる。
拓真はあえて笑みを浮かべず、視線を演算表示に戻した。
すべてが予定通り。予定通りすぎる。むしろそれが、怖い。
そのとき、室内の空調が一瞬だけ揺れた。
──「風」が、逆方向に流れたような錯覚。
拓真は、感じ取ってしまった。
この施設の物理モデルが、微細に“裏返った”ような──
認識の底で、ごく小さな“位相の裂け目”が口を開いたような気配を。
「……本当に、“始まっていない”のか?」
そう呟いた瞬間、サブモニターの一つに意味不明のノイズが走った。
ただの乱数列ではなかった。文字でも、記号でも、波形でもない──情報の“残響”のようなものだった。
「拓真さん……これは」
ナオミが震えた声で呼びかけるが、彼女もそれを言語にできていなかった。
データは正常。構造は安定。全センサーログは“異常なし”。
だが、“知覚”だけが異常を訴えていた。
「……構造は既に、裂けているかもしれない」
拓真は誰に言うでもなく、呟いた。
「主観時間計測、ゼロ点同期完了。全観測系、臨界モードに移行」
ナオミの声が震えていた。震えているのは声だけではない。手元の演算パネルに表示される時空間マッピングは、“揺れて”いた。
物理的ではなく、情報的に。
ベクトルの先端が、まるで空間のどこにも接続できないように、微細なブレを繰り返している。
「……開始しろ」
拓真は静かに指示を出した。
自分の内側に湧き上がる違和感を、もはや“科学的懐疑”の領域では押さえ込めなかった。
それでも、進める。
この理論が正しいかどうかを、確かめるのは今しかない。
ナオミの指が、最終コマンドを入力する。
人工ワームホール・起動フレームが、構造時空解凍プロセスに移行する。
空間に何の変化もない――ように“見える”。
だが、拓真の目には映っていた。
何もない空間が、“僅かにくぼんで”いた。
光でも質量でもない、情報密度の歪み。目を閉じていても感じる。
音が“こちらに流れ込む”のではなく、音そのものが“遠ざかっていく”。
真空ではない。感覚の真空だ。無音のさらに下層にある、無意味の海。
突如、表示パネルのひとつに“数式でない何か”が表示された。
波形でも記号でもない。明らかに、意味のある「形」。
一瞬、それはナオミの顔にも見えた。
拓真は、息を止めた。
「今の……ログ取ったか?」
「はい、でも……このフレームだけ、データ形式が崩壊してます。ファイルになってません……」
それは映像ではない。
それは音声でもない。
“概念”だった。
演算系が“何か”を捉え、処理しようとしたが、既知の記述形式には収まらなかった。
結果、ログは“ファイルになれなかった”。
名前のない情報が、端末の奥底に残響している。
「……構造波、発生開始」
ナオミが小さく呟いた。
拓真の身体が、無意識に反応する。背中に氷の針が滑るような感覚。
「座標データ、空間内不安定領域を検出。第7演算ノードに位相ずれ──補正不能」
その瞬間、空間が“折れた”。
目の前にあった壁が、まるで紙のように裏返り、そこに“別の場所”が開いた。見たことのない色。見たことのない構造。建築か、地形か、それすらも区別できない。
現実の“向こう側”が、裂け目から滲み出している。
ナオミが悲鳴を上げた。
だが、その声は現実から“滑って落ちた”。
音が音でなくなり、意味が意味でなくなりつつある。
「これは……」
拓真は、思考の縁で踏みとどまりながら言った。
「……因果律そのものが、崩壊し始めている」
警告灯が管制室の天井を不規則に照らし出す。
計器類の一部が応答を停止し、残りの端末は断続的なエラー音を吐き出していた。
ナオミが量子演算の再計算に集中する中、拓真は中央ホロボードに映し出された“虚空座標”に目を奪われていた。
――数式が合わない。
理論通りなら、もう閉じるはずの曲率ポテンシャルが、まるで“こちら側に訴えてくるように”伸び続けている。
管制室が揺れた。
天井を走る照明が明滅し、計器の数値が狂った螺旋を描きはじめる。
現実の“秩序”が剥がれ落ちていく。それはまるで、宇宙が息を止めて、何かを見下ろしているようだった。
「ワームホール内重力場、急激なシフト!観測時点と同期していません!これは……っ」
ナオミの悲鳴に近い声が響く中、拓真はコンソールを叩いた。
「緊急遮断シーケンス、起動!いますぐ実験を中止しろ!」
その瞬間、管制室の扉が乱暴に開かれた。
「――やめるなッ!」
霧島玲児だった。髪は乱れ、目は血走り、声は怒気を孕んでいた。
「何をしている、拓真!これは“観測不能域の突破”なんだぞ!」
拓真は振り向きざまに叫んだ。
「これは“突破”じゃない、“崩壊”だ!君は見えていないのか!?この空間が、法則が、もう保てていない!」
「それがどうした。前人未到の一歩とは、常に危険を伴うものだろう!」
「危険じゃない、これは“終端”だ!このままでは世界そのものが崩れかねない!」
霧島は一歩、拓真に詰め寄る。その瞳は燃えていた。理性で熱された、歪んだ“使命感”の炎。
「拓真、君は“われはロボット”を読んだはずだ。“第一条”を信じるな。機械は人間を守るように設計されているが、人間は――進化するためには死を選ぶこともある!」
「ふざけるな……それは詭弁だ。霧島さんは“命”を数式で測ろうとしてる!」
「違う、俺は“可能性”を信じているんだ!」
二人の叫びが、空間の裂け目に吸い込まれていく。
管制室の壁に、目に見えないヒビが走る。現実が裂けていく。言語も因果も、音さえも、意味を失っていく。
霧島は、拳を握ったまま低く唸るように言った。
「ここで止めたら、すべてが“夢”に戻る。人類はまた、狭い檻の中で数千年を彷徨うだけだ。
お前はそれでいいのか?」
「……僕は、“夢のために現実を犠牲にする”ことだけは絶対に許せない」
静かに返した拓真の目には、怒りも恐れもなかった。あるのは、“限界を知る者の覚悟”だけだった。
その瞬間、空間が――崩れた。
何かが破裂したような衝撃。だが、鼓膜には届かない。
かわりに、空間がゆっくりと“裂けて”いく光景が、三次元的に展開していた。
数式が、感情が、構造が、“先に観測されたものから順に”失われていく。
因果律の崩壊は、すでに始まっていた。
そして――
視界の隅に、“誰かが立っている”のを見た。
そこにいるはずのない人物。そこには、“誰もいない”はずなのに、既にそこに“いた”。
しかも、それをナオミも霧島も見ていた。三人の主観が、一致していた。
存在が、観測によって生成された。
「ば、ばかな…」
霧島は恐怖で顔が引き攣っている。
「……あなた……は……」
ナオミの声が、震える。
だが次の瞬間、そいつは空間のゆらぎとともに“崩れ”、数式でも構造でもない“灰色の残響”として溶けた。
「実験、停止します!!」
ナオミが叫ぶようにして、強制中断信号を打ち込む。だが、その中断コマンドすら、「通らなかった」。
モニター上では、中断済みと表示されている。しかし、演算は止まっていない。
時間が、“従っていない”。
「ナオミ、緊急シャットダウンプロトコルを! バックアップユニットを切断しろ!」
「反応しません! ……えっ、なんで……? なに、これ……あれ?」
ナオミの声が、過去と現在でズレはじめる。
彼女の言葉が、先に届いたり、遅れて聞こえたり。
会話が、同期を失い始めていた。
「やめるな!やめるんじゃない!!」
霧島は顔を歪めながら、そう繰り返す。
拓真は、霧島を無視しナオミに語りかける続けた。
「ナオミ、落ち着いて! これは、“場”が歪んでるだけだ。君の意識はまだここにある、僕の声が届いてるだろう?」
だが、ナオミの顔は焦点を失っていた。
「……あれ……タクマさん……? どうして……ずっと前に、死んだはず……」
「ナオミ……?」
次の瞬間、警報が鳴った。いや、鳴ったはずだった。
耳に届く前に、警報音は“過去の出来事”として処理されていた。
「実験中枢にアクセス不能。全系統、観測不能領域へ移行中。主観時刻の同期、破綻」
室内が、歪む。
重力が“真上”に向かって吸い込まれ、空間が裂ける。パネルはバラバラに分解され、数式そのものが空間内を漂っている。
数式が“存在”として浮かび上がり、光が“記憶”として壁に刻まれる。
ナオミと霧島が最後に見せた表情を、拓真は覚えていない。
なぜなら、その表情は観測されなかった。
“自分はもう助からない。”
そう、感じた拓真の頭に浮かんだのは歳の離れた妹、梓のことだった。
拓真に憧れ、同じ物理学の道へ進んだ妹の無邪気な笑顔が浮かんだ。
もう、梓に会えないのか……
死を覚悟した瞬間だった。空間の断裂の中で、彼はただひとり、中心から“弾かれるように”放り出された。
身体が落ちていた。
どこへ、どこから、なぜ落ちているのか――それすらわからなかった。
落下というよりも、世界の“外層”を剥がれながら滑り落ちるような、そんな感覚。
音も光も時系列もない。あるのはただ、自分という観測点だけ。
神代拓真の意識は、確かに生きていた。だが、どの瞬間に生きているのかを認識できなかった。
「……拓真、さん……」
どこかで誰かが名前を呼んだ気がした。ナオミの声だ、と思った。だがそれは、もしかすると未来のナオミか、あるいはまだ出会っていない誰かの声かもしれない。
もしかすると、自分自身の声かもしれない。
時間が、自分の中で波打っていた。
数式が視界に浮かんだ。
あの研究室で、ホワイトボードに記した情報重力干渉モデルの基礎式。だが、それは“式”ではなかった。
記憶そのものが数式のかたちをしていた。
そのとき、何かが“逆再生”のようにひっくり返る感覚があり、拓真の意識は――
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