第2章:命令の重力 —The Gravity of Command—
午前四時一五分、軍用通信回線を通じて指令が届いた。
内容はごく短く、暗号化された承認コードとともにこう記されていた――
《プロトコルXは予定通り実行。遅延の可能性は排除せよ》
伊吹はそれを無言で読んだあと、ゆっくりとディスプレイを閉じた。
周囲には誰もいない。防衛省技術研究本部が設けた通信管理室。室温は摂氏十八度に保たれていたが、汗ばむ手のひらに冷気がまとわりつく。
「……はい」と、独りごとのように答える。
命令は、疑うものではない。
だが、受け止める重さには、毎回わずかに違いがある。
伊吹大佐――いや、一等陸佐。
自衛隊の正式な階級制度に従えばそう呼ばれるが、この施設では誰もが彼を“大佐”と呼んだ。
その方が覚えやすく、威圧感も都合が良かった。
橿原実験場での伊吹の役目は二重だった。
一つは、防衛装備庁から派遣された軍事技術観測官としての役割。
もう一つは、実験場そのものに対する“安全監視”という、より政治的な任務。
彼は科学者ではない。
だが、科学がいつも制御できるものとは限らないことを知っている。
⸻
霧島玲児――この施設の最高責任者。
だが、伊吹にとって彼は“背広を着た夢想家”にすぎなかった。
霧島の発言にはいつも熱があった。未知への憧れ、地球外への展望、科学という信仰。
そのすべてが、あまりに美しく、そして危うかった。
伊吹は、ああいう男を知っている。過去にもいた。
現場を知らず、理想だけで組織を動かそうとする人間たち。
彼らは時に、大事故の直前まで自分たちが“正義”だと信じて疑わない。
――この男もまた、止められない類なのだ。
そう思うと、ほんのわずかに胃の奥が重くなる。
拓真のような“理論の獣”とは違う。
霧島は“思想で物事を動かす”。しかも、その思想がどこか人を巻き込んでしまう危うさを孕んでいる。
「夢」とは本来、美しいもののはずだ。
だが、それが現実の命と結びつく瞬間、伊吹は何度も“悪夢”を見てきた。
朝会の準備が進むなか、伊吹は資料棟の小会議室に入った。
机の上には、霧島が用意させた色とりどりのプレゼン資料が広がっている。スライドに映し出されたワームホール生成理論の概念図。理論主任・神代拓真の監修によるものだ。
「このモデル、重力井戸の安定制御に関しては進んでるが……制御不能域については、どう定義してるんだ?」
伊吹が問うと、端末をいじっていた研究員が「一応こちらに、定義式がありますが」とデータを出す。
拓真が入室してくる。白衣の下は淡いグレーのシャツ、無造作に巻かれた腕時計。無頓着な科学者らしさがにじむ男だった。
「神代博士。あなたの理論が正しいのは、こちらも理解している。ただ……明日、本当にこの出力域まで踏み込む必要があるのか?」
伊吹の問いに、拓真は間を置かずに答えた。
「理論だけで止まっていては、何も証明できません。臨界点を超えることでしか、観測は始まらないんです」
それは、信念というよりも“確信”に近いものだった。伊吹はその目を見て、返す言葉を飲み込んだ。
神代拓真――理論主任。
伊吹は、この男のことを決して嫌いではなかった。
むしろ、理解できないからこそ、興味を惹かれる存在だった。
彼の語る理論は難解で、時に詩のようでさえあった。
高次元、情報重力、観測者による時空干渉。伊吹のような実戦畑の人間からすれば、空論に近い響きを持っていた。
だが、拓真は決して浮ついてはいない。
その目に宿るもの――あれは、本物の探究心だ。
狂気の縁に片足をかけながらも、それでもなお、“真理”という名の崖をのぞき込む者の目。
伊吹は、その眼差しを見てきた。戦場でも、ラボでも。
そして多くの場合、それは死か栄光のいずれかへと通じていた。
厄介なのは、拓真が“止まらない男”ではないことだ。
彼は常に理論に忠実で、臨界点すらも数式の上で計算してから踏み込む。
それが、逆に怖い。危うさではなく、正確さゆえの危機。
伊吹は思う。
もし何かが起きたとしても、神代拓真は驚かないだろう――
なぜなら、彼はそれすら“計算の範囲”だと信じているからだ。
伊吹には、止められなかった過去がある。
八年前、防衛装備庁が関わった新型高出力レーダー試験場にて――施設のエネルギー過負荷によって、若い技術者二名が死亡した。伊吹はその現場にいた。
警告は出ていた。装置内部の熱平衡が崩れかけていた。
けれど、その時も命令はこうだった。「予定通り、実行せよ」
結果だけが彼の手に残った。焼け焦げた白衣。沈黙したログファイル。泣き崩れる家族。
伊吹はその夜、自分の軍服の襟章を握りつぶしそうになった。だが、軍人である限り、彼には“止める権利”がないことを痛感した。
⸻
昼過ぎ、施設の共用スペースで伊吹は如月ナオミの名前が記された“異常データ報告”を目にする。
担当:量子演算主任。如月ナオミ。
内容:演算シミュレーション内における非因果的出力、および予測不能データの混入。
彼女の顔と名前は知っていた。過剰な緊張癖があることも。
だが、伊吹は形式的なヒアリングを行うことを選んだ。今回は、誰も“言わなかった”とは言わせないために。
⸻
「あなたの報告、読ませてもらいました。如月技師」
面談室で、ナオミはおそるおそる答えた。
「……あの、私の主観かもしれません。ただ、収束しない式が……」
「その“収束しない”というのは、実際の演算結果で裏付けられてる?」
「……はい。ただ、通常の閾値内に見えると思います。でも、それは……」
「“感覚”ですか?」
ナオミは言葉に詰まり、小さくうなずいた。
伊吹は静かに記録端末を閉じた。
「分かりました。報告は受理します。が――正式な停止要請の材料にはなりません」
ナオミは俯いたまま「はい」とだけ答えた。
彼女の眼差しの向こうに、伊吹はかすかな“後ろめたさ”を感じた。
午後五時、最終確認のため、伊吹は管制室へ足を運んだ。
大型モニターには、量子干渉型演算装置のステータスが並び、全項目が「正常(NOMINAL)」を示している。
誰もが予定通りに進んでいると信じていた。
ただ、伊吹にはそれが――あまりに整いすぎているように見えた。
かつての事故もそうだった。直前の数時間は、何も問題がなかったのだ。
⸻
技術監督官のひとりが確認のサインを求めてくる。
伊吹はペンを手に取り、署名欄の上でわずかに指を止めた。
「……“問題がない”のと、“止められない”のは違う」
誰にも聞こえない声で、そうつぶやいた。
そして、静かにペンを走らせた。
⸻
その後、伊吹は施設の外壁周囲――軍用資材の保管エリアを巡視する。
現場の隊員が言う。
「天候、良好。風速2メートル。念のため、ドローン飛行も再確認しましたが、風圧干渉なしです」
伊吹は頷き、ふと空を見上げた。
雲一つない夕空。そのはずだった。
――いや、違う。
視界の端で、空が“もう一つある”ような錯覚に襲われる。
空が、二層に重なっている。いや、“重なった何か”が、こちらをじっと見ているような……。
伊吹は息を止めた。
冷や汗が背中を流れる。反射的に右足を半歩下げて身構える。
だが、次の瞬間にはすべてが元通りになっていた。
空は一つ。風は静か。音も匂いも“正常”だ。
⸻
「……目の疲れか」
だが伊吹の胸中には、拭いきれぬ違和感が残った。
彼は無線機に手を伸ばし、静かに言った。
「すべての部隊に通達。警戒レベルを一段階上げろ。理由は、“直感だ”と記録しておけ」
隊員たちは驚いた様子だったが、誰も逆らわなかった。
それが、伊吹という男の“重み”だった。
⸻
午後七時四十五分。
すべての準備が整った。カウントダウンは、翌午前一時から開始される。
伊吹は一人、施設の屋上に立っていた。
遠くに山の稜線が沈み、夜がこの実験場を包もうとしている。
ふと彼の脳裏に浮かんだのは、八年前、焼け落ちたラボの光景だった。
報告書には「ヒューマンエラー」と記された。だが、伊吹は知っている。
“ヒューマン”とは、誰のことでもなかった。ただ、誰も止めなかっただけだ。
⸻
「……今回も、俺は止められなかったな」
その呟きに、答える声はなかった。
ただ、彼の周囲の空間がほんの一瞬、“震えた”気がした。
不安は、ある。
もちろんだ。
実験とは、常に未知への跳躍だ。そこに“絶対”など存在しない。だが伊吹は、その不安を他者に悟られぬよう、内側に閉じ込めていた。
自分は軍人だ。科学者の夢に付き合うのではなく、国の命令に従う。
その言葉を心の中で繰り返す。
……それでも、今回は違った。
プロトコルX――あの名を聞いたとき、伊吹の中に、何かが小さく鳴った。
まるで過去の記憶が、封印を解いて勝手に立ち上がってくるかのように。
そしてそれは、今回の施設にも同じ“匂い”を感じさせた。
だが――それでも。
“今回こそは、大丈夫だ”
伊吹はそう言い聞かせる。
すべての設計は見直されている。リスク管理も徹底されている。
技術者たちは優秀だ。ナオミのような不安要素も、一応は拾い上げて処理した。
神代拓真の理論も、検証可能な形に整っていた。ならば、進むしかない。
不安はあっていい。だが、行動を止める理由にはならない。
伊吹はそういう人間だった。
過去に、止められなかったことを悔いても。
今は、命令に従って前へ進むしかない。それが、“正しい姿勢”なのだと。
目を凝らす。耳を澄ます。
どこかで、誰かが存在しない音を鳴らしているような――
⸻
そして、夜が深まる。
橿原実験場は、世界で最も“静かな臨界”に向かっていた。
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