第8章 新たな旅立ち
三ヶ月後の春。
桜が咲き始めた公園で、紗季は理沙と一緒にベンチに座っていた。
「紗季さん、今日も相談者が三人いるんですって」
理沙は明るい表情でスケジュール帳を見ていた。学校復帰後、理沙は紗季の助手として感応者の仕事を手伝っている。
「みんな、若い人たちね」
「そうですね。最近は感応者への理解も広まってきて、相談しやすくなったみたいです」
紗季は桜を見上げた。三ヶ月前の自分とは、まるで別人のようだった。
あの日から、紗季の感応者としての仕事は順調だった。澪の指導の下、月に十件ほどの未練回収を成功させている。でも何より大きく変わったのは、紗季自身の心だった。
「紗季さん」
理沙が声をかけた。
「最初にお会いした時、私、紗季さんが苦しそうに見えました。でも今は違います」
「そう?」
「はい。とても生き生きしてます」
紗季は微笑んだ。
「理沙ちゃんもよ。最初に会った時とは全然違う」
「それは紗季さんのおかげです」
二人は笑い合った。
---
午後、紗季は久遠澪のオフィスを訪れた。
「今月の報告書です」
澪は書類に目を通した。
「相変わらず優秀ですね。成功率100%を維持している」
「ありがとうございます」
澪は紗季を見た。
「実は、あなたに新しい提案があります」
「提案?」
「感応者の養成プログラムを立ち上げたいのです。その責任者をお願いしたい」
紗季は驚いた。
「私が?」
「ええ。あなたなら、感応者志望の若い人たちを適切に指導できる」
澪は資料を見せた。
「感応者への理解が広まる一方で、志望者も増えています。でも適切な指導者がいない」
「確かに、感応者には技術だけじゃなくて、精神的なサポートも必要ですね」
「その通りです。あなたなら、技術も心のケアも両方できる」
紗季は考えた。確かに、過去の自分のような人たちを助けられるかもしれない。
「やらせてください」
「ありがとうございます」
澪が珍しく笑顔を見せた。
「来月から準備を始めましょう」
---
夕方、紗季は一人で美月のお墓を訪れた。
墓石に新しい花を供える。白い菊の花だった。
「美月姉、報告があります」
紗季は墓石に向かって話し始めた。
「感応者養成プログラムの責任者になることになりました」
風が吹いて、桜の花びらが舞った。
「最初は不安だったけど、今は楽しみです。きっと、美月姉がやりたかったことだと思うから」
墓石の前に、ピンク色のクマのぬいぐるみが置かれていた。モモだった。
あの日以来、モモは動かない。でも紗季は、いつもモモを大切に持ち歩いている。
「モモも一緒に頑張ろうね」
モモは答えない。でも、夕日に照らされて温かそうに見えた。
「美月姉、私、本当に生きてる実感があります」
桜の花びらが、また一枚舞い落ちた。
「毎朝起きるのが楽しみだし、明日何をしようかって考えるのも楽しい」
紗季は立ち上がった。
「友達もできたし、やりたい仕事もある。いつか恋愛もしてみたいな」
空を見上げる。薄紫色の空に、一番星が光っていた。
「美月姉の分まで、たくさん生きます」
---
その夜、紗季は新しいアパートで夕食を作っていた。
一人暮らしを始めて一ヶ月。料理はまだ上手じゃないけれど、作ること自体が楽しかった。
テーブルの上には、明日の養成プログラムの企画書が置かれている。
「感応者のための心理ケア講座」
「未練回収の基本技術」
「感情暴走への対処法」
どれも、過去の自分が必要としていた内容だった。
携帯電話が鳴った。理沙からだった。
「紗季さん、お疲れ様です」
「理沙ちゃんもお疲れ様」
「明日の企画会議、資料の準備できました」
「ありがとう。理沙ちゃんがいてくれて、本当に助かってる」
「私の方こそです。紗季さんと一緒に働けて幸せです」
電話を切った後、紗季は窓を開けた。
春の風が部屋に入ってくる。どこかで桜が咲いている匂いがした。
テーブルの上のモモが、夜の光を受けて輝いて見えた。
「モモ、今日もお疲れ様」
紗季はモモの頭を優しく撫でた。
「明日も頑張ろうね」
---
翌朝、紗季は早起きして公園を散歩した。
桜が満開になっている。花見をしている家族連れもいる。
ベンチに座って、企画書に最後の確認をしていると、声をかけられた。
「雨宮さん?」
振り返ると、知らない青年が立っていた。
「はい」
「僕、田中健一です」
紗季は驚いた。美月の元恋人の健一だった。
「あの……美月さんの」
「そうです。妹の紗季さんですよね」
健一は隣に座った。
「実は、ずっとお会いしたくて」
「どうして?」
「美月さんのことで、謝りたくて」
健一の表情は、申し訳なさそうだった。
「僕が美月さんを理解できなくて……」
「もう、いいんです」
紗季は健一を制した。
「美月姉は、もう安らかに眠ってます」
「でも……」
「健一さんのことも、美月姉は最後まで悪く思ってませんでした」
紗季は美月の記憶を思い出した。健一への恨みではなく、理解してもらえなかった悲しみだけがあった。
「美月姉が望んでいるのは、健一さんが自分を責めることじゃない。健一さんが幸せになることです」
健一の目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます」
二人は桜を見上げた。
「美月さんは、素晴らしい人でした」
「はい。私の自慢の姉です」
風が吹いて、桜の花びらが舞い踊った。
---
その日の午後、紗季は初めての養成プログラム説明会を開いた。
参加者は十人。みんな、過去の紗季のような表情をしていた。
「感応者になりたい理由は、人それぞれだと思います」
紗季は参加者を見回した。
「でも一つだけ、覚えておいてほしいことがあります」
手を挙げた少女がいた。
「何ですか?」
「感応者の仕事は、死者の未練を回収することです。でもそれ以上に大切なのは」
紗季は微笑んだ。
「生きている人たちに、生きる希望を与えることです」
参加者たちの表情が明るくなった。
「私たちは、ぬいぐるみのように死なない存在ではありません。でも、だからこそ」
紗季はモモを手に取った。
「限りある時間を、大切に生きることができるんです」
説明会の後、一人の少年が紗季に近づいてきた。
「僕、昔いじめられてて、死にたいって思ってました」
「そうだったんですね」
「でも今日のお話を聞いて、僕も誰かを助けたいって思いました」
少年の目が輝いていた。
「頑張ります」
「私も一緒に頑張ります」
紗季は少年の手を握った。
---
その夜、紗季は実家の屋上に立っていた。
あの日、死のうとした場所。でも今は、全く違う気持ちでここにいる。
街の明かりが綺麗に見える。人々の生活の温かさが、光となって輝いている。
「美月姉、見てる?」
空を見上げる。星がたくさん見えていた。
「私、本当に幸せです」
ポケットからモモを取り出した。
「モモも、ありがとう」
モモは答えない。でも、星の光を受けて優しく微笑んでいるように見えた。
風が吹いて、紗季の髪を揺らした。
「明日も、たくさんの人に会える」
紗季は歩き始めた。屋上を後にして、新しい明日に向かって。
ぬいぐるみは死なない。
でも人間は、生きることができる。
それが、何より素晴らしいことなのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます