第6章 姉の記憶
その夜、紗季は美月の記憶に支配されていた。
アパートに帰っても、美月から受け継いだ記憶が次々と蘇ってくる。まるで映画のフィルムを巻き戻すように、美月の人生が紗季の心の中で再生されていた。
*十五歳の美月が、初めて他人の感情を感じ取った瞬間。*
*母親の不安、父親の苛立ち、すべてが美月の中に流れ込んできた時の混乱。*
*「私がおかしいの?」と小さく呟いた美月の声。*
紗季は布団の中で震えていた。これが美月の感じていた世界なのか。
*大学時代の美月と健一のデート。*
*健一の笑顔の裏にある「君は普通じゃない」という思い。*
*それを感じ取りながらも、愛されたいと願う美月の切ない気持ち。*
「美月姉……」
紗季は枕を濡らした。美月がどれほど孤独だったかが、痛いほどわかった。
そして、最も辛い記憶が蘇ってきた。
---
*三年前の夏。美月が最後に家族と過ごした日。*
*「美月、お前のせいでこの家はめちゃくちゃだ」*
*父親の怒声が居間に響いた。*
*「もういい加減にしろ。精神科に行ったって治らないじゃないか」*
*美月は黙って俯いていた。紗季は二階で、その会話を聞いていた。*
*「あなた、それはひどすぎる」*
*母親が美月を庇った。*
*「ひどい? 現実を見ろよ。美月のせいで近所の人たちも変な目で見てくる」*
*「美月は病気じゃない。特別な能力があるだけ」*
*「特別? 気味が悪いだけだろ」*
*美月の肩が震えていた。*
*「お父さん……」*
*美月が小さく声を発した。*
*「私、消えた方がいいの?」*
*父親は振り返らなかった。*
*「……そうかもしれないな」*
*その瞬間、美月の心が折れる音が聞こえた。*
---
紗季は起き上がった。記憶の中の美月の絶望が、自分の胸を締め付けている。
「お父さん、ひどすぎる」
でも父親の気持ちも、美月の記憶を通してわかってしまった。父親は美月を愛していた。でも、理解できない美月の能力に恐怖を感じていた。
*美月の最後の夜。*
*美月は紗季の部屋を覗いた。*
*「紗季、起きてる?」*
*紗季は寝たふりをしていた。なぜなら、美月の暗い表情を見るのが怖かったから。*
*「ごめんね、紗季。お姉ちゃん、いい姉じゃなかった」*
*美月が小さく呟いた。*
*「でも、あなただけは幸せになって。お姉ちゃんの分まで」*
*美月は紗季にそっとキスをして、部屋を出て行った。*
*それが最後だった。*
---
「私のせいだ……」
紗季は自分を責めた。あの時、美月と話していれば。美月の気持ちを聞いていれば。
でも美月の記憶は、紗季の自責を否定した。
*美月が最期まで大切にしていたのは、紗季の笑顔だった。*
*紗季が元気でいること、それだけが美月の支えだった。*
*「紗季が悲しんだら、私の死が無意味になる」*
*美月の最後の思いだった。*
紗季は泣き止んだ。
「美月姉は、私を責めてない」
でも、新たな疑問が湧いてきた。
「なぜ私だけが生きているの?」
美月の方が優しくて、賢くて、能力も高かった。なのに美月は死んで、平凡な自分だけが生き残っている。
その答えも、美月の記憶の中にあった。
*美月の日記の最後のページ。*
*「紗季には、私にはない強さがある。*
*感応能力がなくても、人の心に寄り添える。*
*私は能力があっても、最後まで一人だった。*
*でも紗季なら、きっと誰かと一緒に歩いていける。*
*私ができなかったことを、紗季がしてくれる。*
*それが私の希望。」*
紗季は窓を開けた。夜風が部屋に入ってくる。
「私は、美月姉の希望なんだ」
その時、携帯電話が鳴った。久遠澪からだった。
「雨宮さん、緊急事態です。すぐに来てください」
「今からですか?」
「はい。大規模な感情暴走が発生しています。あなたの力が必要です」
紗季は服を着替えた。もう迷わない。
「行きます」
---
澪が指定した場所は、市内の高等学校だった。校舎全体が不気味な光に包まれている。
「何が起きてるんですか?」
「生徒の一人が、感情の暴走を起こしています。周囲の人たちの感情を巻き込んで、大規模な感情嵐になっている」
澪は紗季に防護服を渡した。
「感情暴走の中心に近づくと、精神に異常をきたします。でも、あなたなら止められるかもしれない」
「私に?」
「あなたは美月さんの記憶を受け継いだ。彼女のレベルの感応能力があるはずです」
紗季は校舎を見上げた。三階の教室から、強い感情の波が放射されている。
怒り、絶望、孤独感。すべてが混じり合って、周囲を巻き込んでいる。
「中にいるのは?」
「山下理沙。17歳。いじめが原因で不登校になっていた生徒です」
紗季の胸が痛んだ。理沙も、美月や自分と同じように苦しんでいるのだろう。
「行きます」
「危険です」
「でも、私がやらなきゃ」
紗季は校舎に向かって歩き始めた。
「美月姉なら、きっと理沙ちゃんを助けてる」
校舎の中は、感情の嵐で満ちていた。廊下を歩くだけで、理沙の苦しみが紗季の中に流れ込んでくる。
『誰も理解してくれない』
『なんで私だけ』
『消えてしまいたい』
三年前の美月と同じ感情だった。
教室のドアを開ける。理沙が床に座り込んで泣いていた。周囲から放射される感情の波が、教室全体を震わせている。
「理沙ちゃん」
理沙が顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔。
「誰?」
「雨宮紗季。あなたと同じ、感応者」
「感応者?」
「そう。あなたの苦しみ、わかる」
紗季は理沙の前に座った。
「私の姉も、感応者だった。でも、一人で苦しんで、死んじゃった」
理沙の感情の波が少し弱くなった。
「あなたの姉も?」
「うん。でもね、姉が最後に言ってたの。『一人じゃない』って」
紗季は手を伸ばした。
「今度は、私があなたと一緒にいる」
理沙の手が、紗季の手を握った。
その瞬間、感情の嵐が静まった。
教室に静寂が戻った。
「もう大丈夫」
紗季は理沙を抱きしめた。
「私たち、一人じゃない」
窓の外で、夜が明け始めていた。
紗季は確信した。これが自分の使命だと。
美月ができなかったことを、自分がやる。
感応者として、苦しんでいる人たちと一緒に歩いていく。
それが、生きている理由なのだと。
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