第4章 美月の記憶

その夜、紗季は家に帰らなかった。


久遠澪への返答期限は明日まで。そして、美月について知りたいことが山ほどあった。


「ここなら誰にも邪魔されねぇ」


モモが案内したのは、川沿いの小さな公園だった。ベンチと滑り台があるだけの、寂れた場所。街灯がぽつりと一つ、オレンジ色の光を投げかけている。


紗季はベンチに座り、モモを膝の上に乗せた。


「美月姉のこと、話して」


「どこから話せばいいかな」


モモの声が、いつもより柔らかく聞こえた。


「最初から。どうやって美月姉と出会ったの?」


「美月が十五の時だ。おまえと同じくらいの年齢だな」


夜風が公園を通り抜けていく。


「美月は、感応者だった」


紗季は驚いた。


「姉が?」


「ああ。でも当時は感情管理局なんてなかった。感応者は『異常』として扱われてた」


モモの目が、遠くを見つめているように見えた。


「美月は他人の感情が流れ込んできて、苦しんでた。学校でも家でも、周りの人の怒りや悲しみがすべて美月の中に入ってくる」


「それで?」


「美月の両親──おまえの両親は、美月を精神科に連れて行った。『幻聴がある』って」


紗季の胸が痛んだ。


「でも病院では治らない。薬を飲んでも、他人の感情は聞こえ続ける」


「それで、モモに出会ったの?」


「俺は元々、美月が子供の頃から持ってたぬいぐるみだった。でも美月の感応能力が強すぎて、俺にも意識が宿った」


モモは紗季を見上げた。


「美月が俺に話しかけるようになったのは、十五の誕生日の夜だった」


「どんなふうに?」


「『モモ、私の話、聞いてくれる?』って。最初は俺も驚いた。まさか自分が喋れるなんて思ってなかったからな」


紗季は想像しようとした。十五歳の美月が、一人でぬいぐるみに話しかけている姿を。


「それからは、俺が美月の相談相手になった。感応能力のこと、周りの人との関係、将来への不安。全部、俺に話してくれた」


「美月姉、私には何も話してくれなかった」


「おまえはまだ子供だったからな。美月は、おまえに心配をかけたくなかった」


風が強くなった。街灯の光が揺れている。


「美月は大学に進学した。心理学を勉強するって言ってた」


「心理学?」


「自分みたいな人を助けたいって。感応者のための治療法を見つけたいって」


モモの声に、誇らしさが混じっていた。


「でも、大学でも苦労した。教授や同級生の感情がすべて流れ込んでくる。レポートを書いていても、図書館にいる人たちの不安や焦りが美月の中に入ってくる」


「それでも続けたの?」


「ああ。美月は強かった。でも」


モモの声が沈んだ。


「二十歳の時、美月に恋人ができた」


紗季は初めて聞く話だった。


「田中健一って男だ。同じ心理学科の学生で、優しい奴だった」


「どんな人?」


「真面目で、美月のことを本当に愛してた。美月の『特殊な能力』も受け入れてくれた」


モモは立ち上がり、ベンチの端を歩いた。


「健一は美月に『君と一緒にいると、心が安らぐ』って言ってた。でも実際は逆だった」


「逆?」


「健一の感情も、美月の中に流れ込んでた。愛情だけじゃない。不安も、嫉妬も、怒りも」


紗季は理解し始めた。


「美月姉は、健一さんの負の感情まで感じ取ってたってこと?」


「そうだ。健一は表面では優しかったが、心の奥では美月の能力を『気味が悪い』と思ってた。それが美月にはわかってしまった」


モモは振り返った。


「ある日、健一が美月に言ったんだ。『君の能力、治らないのかな』って」


紗季の拳が握りしめられた。


「治すって……美月姉は病気じゃないのに」


「健一にはわからなかった。美月の苦しみも、美月の能力の価値も」


「それで?」


「美月は健一と別れた。でも、それがきっかけで美月は考え始めた」


モモが紗季を見つめた。


「『自分みたいな人間は、誰と一緒にいても相手を不幸にする』って」


紗季の目に涙が浮かんだ。


「そんなこと、ないのに」


「そうだ。でも美月は思い込んでしまった。大学も辞めて、家に引きこもるようになった」


「私、覚えてる」


紗季は思い出していた。美月が急に暗くなって、部屋から出てこなくなった時期があった。


「あの時、美月姉は苦しんでたんだ」


「ああ。でも美月は、おまえには明るく振る舞ってた。『紗季だけは、普通に育ってほしい』って」


モモは紗季の膝に戻ってきた。


「美月の最後の二年間は、本当に辛そうだった。俺に話しかけることも少なくなった」


「なんで死んじゃったの?」


「直接的なきっかけは、おまえの両親の離婚話だった」


紗季は驚いた。


「離婚?」


「美月の能力のことで、両親が対立してた。母親は美月を理解しようとしてたが、父親は『恥ずかしい』と思ってた」


モモの声が震えていた。


「そして、父親が言ったんだ。『美月さえいなければ、この家は平和だった』って」


紗季の心臓が止まりそうになった。


「それを、美月姉が聞いてしまったの?」


「ああ。その夜、美月は俺に言った。『もう疲れた』って」


風が止んだ。公園が静寂に包まれた。


「美月の最期の言葉は何だった?」


「『紗季を守って』だった」


モモは紗季を見上げた。


「だから俺は、三年間ずっとおまえを探してた。おまえが屋上に立った時、やっと役目を果たせると思った」


紗季は泣いていた。涙が止まらなかった。


「美月姉……私のために……」


「美月の未練は、おまえが幸せになることだ。それが解消されない限り、俺は消えない」


紗季はモモを抱きしめた。


「でも、私が幸せになったら、モモは消えちゃうの?」


「多分な」


「嫌だ」


「でも、それが美月の願いだ」


紗季は空を見上げた。星が少し見えている。


「美月姉は、間違ってた」


「何が?」


「感応者だからって、誰かを不幸にするわけじゃない。美月姉は、たくさんの人を助けられたはず」


モモが静かに頷いた。


「そうかもしれないな」


「私、決めた」


紗季は立ち上がった。


「久遠さんの提案を受ける。正式な感応者になる」


「なんでだ?」


「美月姉ができなかったことを、私がやる。感応者として、誰かを助ける」


モモの目が光った。


「でも、俺は消えるかもしれないぞ」


「それでも」


紗季はモモを見つめた。


「美月姉の想いを、無駄にしたくない」


夜空に雲がかかった。でも星は、まだ見えている。


「明日、久遠さんに返事をする」


「わかった」


モモは紗季の肩に乗った。


「でも一つだけ、約束してくれ」


「何?」


「俺が消えても、美月の想いは覚えていてくれ」


「当たり前」


紗季は歩き始めた。


「美月姉の分まで、生きる」


公園を出る時、振り返った。ベンチが街灯に照らされて、小さく見えた。


でも今夜ここで、紗季は大きな決断をした。


明日から、新しい人生が始まる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る