信号待ち、重なる指先。

志乃原七海

第1話。押しボタン式

やれやれ、と心の中で小さくため息をつく。

西日が橙色に染め上げる帰り道。目の前の信号は、赤い人の形を頑なに表示したまま、沈黙している。ちらりと横のポールに目をやれば、案の定だ。無骨な四角い箱に、丸いボタンが鎮座している。


『おまちください』


押さない限り、永遠にこのままの世界線。誰か押してくれないかと数秒待ってみたが、おれの他に横断歩道を待っている人影はない。仕方ない。億劫な腕をそろそろと持ち上げ、人差し指を伸ばす。あの冷たくて硬いボタンに、この日常の小さな義務を押し付けるために。


指先が、あと数センチで目標に到達しようとした、その瞬間だった。

視界の右端から、白い影がスッと伸びてきたのだ。

おれの指先よりも細く、しなやかな指。


「あ」と思う間もなく、柔らかな感触がおれの指を包んだ。


おれの無骨な指先の上に、彼女の指先が、まるで淡い花びらが舞い降りるように、そっと重なった。その下には、冷たいはずの信号ボタン。二つの体温が、プラスチックの上で混じり合う。


「え?」

おれの声と、

「あ……」

彼女のかすれた声が、同時に漏れた。


視線が絡み合う。年の頃はおれと同じくらいだろうか。大きな瞳を驚きに見開いた彼女の顔が、西日を浴びてキラキラしている。

気まずさにどちらかが手を引くのが普通だろう。だが、なぜかおれたちは、どちらも指を引けずにいた。


先に沈黙を破ったのは、彼女の方だった。

ふふっ、と堪えきれないように小さな笑い声が漏れる。その笑い声に感染するように、おれの口元も自然と緩んだ。

「……どうも」

「いえ、こちらこそ……」

意味のわからない挨拶を交わしながら、くすくすと笑い合う。指先は、まだ重なったままだ。なんだこれ。なんだか妙におかしくて、温かい。この奇妙な連帯感は、一体なんなんだ。


おれたちだけの小さな世界が、永遠に続くかのように思えた、その時。


「コホン!」


背後から、やけに響く咳払いが聞こえた。

振り返るより先に、低くも張りのある女性の声が鼓膜を打つ。


「ちょっとアンタたち、何時までやってんのよ!」


ハッと我に返ると、いつの間にか後ろに立っていた腕組み姿の女性が、呆れたような、それでいて面白がるような目でこちらを見ていた。ああ、しまった。


「あ?!」「は、はい!」


おれたちはまるで感電したかのように慌てて手を離した。ようやく解放された信号ボタンが、カチリ、と健気な音を立てる。

気まずさと照れ臭さで、再び顔を見合わせる。今度は、さっきよりもっと大きな声で、二人して吹き出してしまった。


「ふふ、あははっ!」

「はははっ、すいません……」


ピポパポ、と軽快な音が鳴り響き、目の前の信号が青に変わる。

腕組みをしていた女性は、やれやれと首を振りながらも、口元には笑みを浮かべていた。

「ほら、さっさと行きなさいよ。恋の始まりでもなんでも、道端じゃ邪魔なだけなんだから」


そう言って、おれたちの背中をポンと軽く叩く。

「……ありがとうございます」

誰にともなく礼を言って、おれたちは横断歩道を渡り始めた。隣を歩く彼女の顔は、夕日よりも赤く染まっていた。おれの顔も、きっと同じ色をしているに違いない。


まだ名前も知らない。でも、この信号の先で、何か新しい物語が始まるような、そんな予感がしていた。

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