第2話 ダイゴ・イズ・デッド
昼下がりの店内は、煙と騒音と活気に満ちていた。 商店街の一角にある小さい食堂『天下飯店』《てんかはんてん》。いわゆるどこにでもある町中華。
清潔感はあるのにナゼか油で滑る床。無駄に全巻揃ってる渋いチョイスの漫画本。
十人ほど座れるカウンターと気持ち程度のテーブル席は意外と埋まっている。
ラジオから昭和歌謡。グラスの氷がカランと鳴り、玉杓子の当たる音が響く。
この騒がしい空間の主役が、今まさにカウンターの奥で中華鍋を振っている。
――俺だ。
『天下飯店』なんて強そうな名前は、父が勝手につけたものだ。天下一武道会じゃあるまいし。俺は看板を見るたび、つい『オラ、ワクワクすっぞ!』って言ってしまう。もちろん心の中で。
そんなセンスの塊だった父は十年前に倒れた。唐突に。会社を早退して駆けつけた病室で、言葉なく鍵だけを渡された。それ以来、厨房に立っている。きっとこれが親孝行ってやつなのだろう。今ではそう思うようにしていた。
鍋の中では豚バラ肉と刻みニンニク。 表面が飴色に変わるのを見て「焼きすぎか?」と一瞬不安になるけど、これでいい。人生も料理も、焦げ目があってこそ味が出る。
野菜を放り込む。 キャベツの淡い緑、ピーマンの深い緑、ネギの白と青。
三色団子ならぬ三色野菜が一斉に鍋へダイブ。
シャキシャキなんて生易しい音じゃない。火と油と鉄の乱舞の中で、野菜たちは変わっていく。
手首を返す。
野菜が跳ね、鍋の下で火が吠えた。豆板醤の香ばしさが煙に混ざり、換気扇めがけて上がっていく。ただし、換気扇は今日も仕事をしていない。 回ってはいるけど、空気は動かない。うるさいだけのオブジェと化している。しかも店内のクーラーはここまで届かない。なぜならガスコンロの炎が黙殺するから。
額から汗。背中から汗。全身から汗。
どこか体の機能がぶっ壊れたんじゃないかと疑うほどだ。
そう。ここは灼熱の南国常夏パラダイス。 だが青い海も、ヤシの木も、水着のギャルもいない。あるのは俺の汗と火力のみ。ようこそ、地獄の楽園へ。 だが、それを嘆いている暇はない。野菜がちょうどいい火の通りになった今こそ、運命のタイミングだからだ。
「はいよー、
カウンター越しにトレーを置く。
立ち上る湯気。油の艶と旨味をまとった肉や野菜。
「わー美味しそう!」
目の前のOLは嬉しそうに箸を取る。
この顔を見るたび、この仕事も案外悪くないと感じてしまう。今日もやるかって気になる。 実に単純。
「ダイゴさん、今日は特に暑いってからちょっとは休みなよ?」
カウンターの向こうから軽い声が飛んだ。
毎週火曜に現れる元消防士のジイさん。女には弱いが火には強かったらしい。
次の注文に取り掛かりながら、ダイゴは片手だけ挙げる。
「大丈夫、大丈夫。なんなら寒いくらいだぜ?」
小さな笑いが散った。揚げ物の衣みたいに、ふわっと、さくっと。
いつもと変わらない調子だった。
「はい、麻婆定食一丁!」
皿をカウンターに置いてひと息つく間もなく、「こっち、餃子定食三つお願い!」。 遠くから聞こえたその声に「マジかよ」と思いながら、体は勝手に次の動作に入っていた。
会計を呼ぶ声。水をこぼす音。注文を忘れて取りに来る常連。汗が背中を伝う。いつもの昼。
休憩は倒れたときに取ると決めている。倒れたくはないが、計画としては完璧だ。
炊飯器のフタを開け、しゃもじで釜の底をなぞる。感覚が少し鈍い。
──あと三人前。ギリギリ。注文がもう一つ入ればアウトだ。お米終了のお知らせ。
それでも体は勝手に動く。無洗米を量り、水を入れて釜にセット。 指は正確に動く。いつも通りに。でもどこかズレていた。
例えば知らずに靴を左右逆に履いたときの違和感。 見た目は合ってる。でも体が「違う」と言ってくる。
が、それも含めていつもの調子だと言い返し、鉄板の上に餃子を並べた。
カリッと焼けるまでのわずかな猶予を使い、米をよそい、スープを出し、皿を下げ、伝票に目をやる。要するに、てんやわんやの昼どきってやつだ。
そして気づけば、山のような注文もようやく片付きはじめていた。
客の数も減り、カウンターではオッサンが新聞を広げている。静かになったことをわざわざ演出してくれているのかもしれない。ありがたい。
それを横目に鍋を替え、火をつける。次はスタミナ焼きそば。
その一連の動きの合間、視界の端に黒い点がちらついた。 煙か、目のゴミか、あるいは幻覚か。まあ、そういうのは「気にしたら負け」というやつだ。
「ダイゴさん、お水飲んでくださいね」
カウンターから声がかかる。 今度はよく来る黒髪の女子大生。
礼儀正しくて、ちょっと心配性。コップを置く手つきが今日は少しだけ慎重だった。気のせいかもしれない。
なんて優しい子だろう。 しかも顔もほんのり可愛い。 「ほんのり」が大事で、あまりに整っているとこちらが気後れする。
「おう! サンキューな」
ダイゴは首のタオルで汗を拭い、コップに手を伸ばした。
「あっ……」指がすべって、机の縁にぶつけた。水がこぼれ、袖がしっとり濡れる。
笑ってごまかした。女の子も笑った。 この笑いが本当に「ごまかされた」笑いなのか、それとも「気にしてませんよ」の優しさなのかはわからない。が、たぶん店が、いや──ほんの少しは自分が、愛されているのかもしれない。
そう思えるだけで、今日は勝ちだ。
焼きそばを盛りつける。
焼きは完璧。表面の艶もいい。 だが背中の汗が止まらない。滝のように流れている。 目の奥もズーンと重たい。漫画だったら“縦線”が入りそうなレベルだ。
──でも、休む理由も、タイミングもない。というか、その必要があるのかどうかすら分からなくなってきた。
トレーを運び、厨房へ戻る。その繰り返しのどこかで、ふと床が遠くなった気がした。視界がわずかに沈む。足がついてない……いや、ついてる。
なんか感覚が変だ。
空気の中を歩いているような、足だけが他人のものになったような。
──と思った次の瞬間、目の前に地面があった。
衝撃。
ガツン、という音がした。多分、自分の頭。 でも、その痛みさえもどこか遠く感じた。 自分の身体のニュースを他人から聞かされているような感覚。
全身から力が抜け、耳が詰まったように音が遠のく。誰かの声。椅子を引く音。ガチャッという食器のぶつかる音。全部が水中みたいにくぐもって聞こえた。
視界の端には、コップから溢れた水が見えた。 床に落ちたそれが、ゆっくりと光を反射している。
思ったより、きれいだった。
◇◇◇
意識がゆっくり浮上する。 深海から這い上がるように、あるいは布団の中で目覚まし時計を探るような。
──静寂。完全なる無音。 火の音も、ラジオも、店内のガヤガヤも、ジュースをこぼした子どもの泣き声すらも消えていた。 音がごっそり、まるごと無い。
次に視界がないことに気づく。 舞台の照明が突然落ちたような、完全な暗転。目は開いてる……はず。まばたきしている感覚もない。 そもそも身体があるのかすら怪しい。
ただ、ひとつだけはっきりしていたのは──
「これ、だいぶマズいかもしれない」という感想だった。
理由はわからない。誰かが説明してくれたわけでもない。でも、「なんかやらかしたな」という確信だけが、冷や汗とともに湧いていた。
何も無い空間。時間が止まってるのか、倍速で進んでるのか、判断がつかない。 ただ、何かが終わって、何かが始まるまでの“間”。 演劇の幕間で、客席が妙にそわそわしてる、あの落ち着かなさに似ていた。
──と、足音がした。
コツ、コツ、と控えめでいて妙に存在感のある音。背後から近づいてくる、硬くて冷たい床を踏みしめる音。 厨房でも、病院でも、アスファルトでもない。
が、こっちに用があるのはわかる。
だいたいそう言うもんだ。
振り返ろうとした──が、身体が動かない。あるいは最初からこっちを向いていたのかもしれない。 それすら曖昧だった。空間の座標も、上下左右の概念もバグっている。
そうこうしているうちに足音は止まった。そこだけにスポットライトが当たったように、黒いフードを目深に被った人物が目の前にいる。 性別も年齢も不明。フードの奥は真っ暗で、のぞきこもうとしたら吸い込まれそうだった。
いわゆる「死神ってこういうのだよね」というやつ。典型的すぎて、逆に恐ろしい。怖さのテンプレートに忠実すぎる。
沈黙。 ずっと沈黙。 こちらが話しかければいいのかもしれないが、第一声に迷う。 「はじめまして」なのか、「えっと、死神ですか?」なのか。
相手は一言も発せず、ただじっと──威圧というより“宣告”のように立っていた。 目なんて見えないのに、視線だけがグサグサ刺さってくる。
そして、ダイゴはようやく状況を理解した。
──あ、これ、きっと死んだな。
不思議と自然に腑に落ちた。 それでいて胃のあたりがスウッと冷たくなるやつ。
──人生って、こんなふうに終わるんだ。
誰かが勝手に舞台の幕を下ろした、そんな感覚だった。 主役の台詞がまだ残っているのに、照明だけが落ちる。そういう雑なカーテンコール。
悔しいか? たぶん悔しい。 でも泣きわめくほどじゃない。ただ、惜しい。シンプルに、惜しい。もうちょっとだけ、やりたかったな。
だから最後にひとつだけ、ダイゴはため息をついた。肩も動かせないのに、なぜかため息だけはちゃんと出た。そしてゆっくりと目を閉じた。
──暗闇の中。遠くで、何か鈍い音が聞こえたような気がした。
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