第28話 選択のハーモニー
アトリエ「ノクターン」に提示された、再開発側からの具体的な補償案は、彼らの「居場所」を守るための闘いに、新たな局面をもたらした。それは、一見すれば魅力的な数字であり、メンバーたちの心に、現実的な選択肢として重くのしかかった。和泉 律は、自分たちの「音」が社会に共鳴し始めた喜びと、この厳しい現実との間で、深く葛藤していた。
「この額なら、新しい場所を探して、もっと良いアトリエを作れるかもしれない…」
**風見 拓人(かざみ たくと)**の口から出た言葉は、彼が抱える過去の挫折と、未来への現実的な視点が混じり合ったものだった。彼の「弦の軋む音」は、かつての痛みを繰り返すまいとする、現実的な選択を促しているようにも聞こえた。
**瀬戸 美緒(せと みお)**は、補償案の書類をじっと見つめていた。彼女の作品が世に認められ始めた今、新しい環境で、もっと自由に創作できる可能性に、心が揺れているのかもしれない。彼女は何も言わないが、その視線は、アトリエの古い壁と、外に広がる再開発地区のビル群の間を行き来していた。
**星宮 灯(ほしみや あかり)**は、小さく身を縮めていた。彼女にとって、このアトリエは、唯一安心して「音」を出せる場所だ。新しい環境への適応は、彼女の抱える対人恐怖症にとって、計り知れないストレスとなるだろう。彼女の「沈黙の音色」は、不安と、そしてこの場所への深い愛着を訴えかけているようだった。
**佐倉 結月(さくら ゆづき)**は、メンバーそれぞれの表情を注意深く見ていた。彼女自身も、祖父が大切にしてきたアトリエがなくなる可能性に心を痛めている。しかし、彼女は冷静に、そして温かく、彼らの意見を聞き、それぞれの思いを受け止めようとしていた。
「みんなの気持ちは、よく分かるよ。私も…正直、迷う気持ちがないわけじゃない」結月は、正直に言った。「でも、これは、お金だけの問題じゃない。このアトリエは、私たちにとって、何を意味するのか…それが、一番大切なことだと思う」
律は、結月の言葉に深く頷いた。自分たちがここで見つけたものは、単なる建物ではない。それは、それぞれの「見えない音符」を「音」に変え、互いに響き合わせることで生まれた、かけがえのない「居場所」だ。
その夜、アトリエには、いつもとは違う、重い沈黙が流れていた。誰もが、それぞれの心の中で、葛藤を抱え、未来を考えている。
律は、ピアノの前に座った。鍵盤に触れる指先は、ひんやりと冷たい。彼は、アトリエのテーマ曲を、ゆっくりと弾き始めた。拙いながらも、律の心からの「音」が、アトリエに響き渡る。
その音に、まず反応したのは、拓人だった。彼は、静かにギターを抱え、律のメロディに寄り添うように、コードを奏で始めた。彼のギターの音は、迷いを抱えながらも、それでもこの「コンチェルト」を奏でようとする、彼の決意を表しているようだった。
次に、美緒が立ち上がり、律と拓人の音に合わせて、床に散らばっていた石膏の破片を、拾い集め始めた。それは、彼女が壊してきた過去の作品の断片。しかし、彼女の手つきは、もうそれを「ゴミ」として扱うものではない。まるで、一つ一つの破片を拾い上げ、そこから新たな形を見つけ出そうとしているかのようだった。
灯もまた、ゆっくりと律のピアノの方へ歩み寄ってきた。彼女は何も言わないが、律のピアノの音と、拓人のギターの響き、そして美緒の静かな動きを、瞳の中に焼き付けているようだった。彼女の「沈黙の音色」は、彼らの「コンチェルト」の中で、確かな存在感を放っていた。
律は、彼らの「音」が、再び一つに重なり始めているのを感じた。完璧なハーモニーではない。葛藤や不安といった「不協和音」も含まれている。しかし、それこそが、彼ら自身の「選択のハーモニー」なのだ。
夜が深まり、アトリエには、彼らの奏でる「コンチェルト」だけが響いていた。彼らは、ここで見つけたかけがえのない「居場所」と、それを守るための「音」を、簡単には手放さない。彼らは、この不確かなハーモニーの中で、自分たちの未来を、自分たちの手で選び取ろうとしていた。
続く
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