第10話 響き始めた予感
アトリエ「ノクターン」の空気は、和泉 律にとって、すっかり日常の一部となっていた。もう、ドアを開けるたびに緊張することはない。ここには、それぞれの「音」を奏でる仲間たちがいる。星宮 灯の沈黙の音色。瀬戸 美緒の砕けた破片の歌。風見 拓人の弦の軋む音。そして、佐倉 結月が奏でる、アトリエを包み込むような優しいハーモニー。律は、彼らの不揃いな音が、不思議と心地よいコンチェルトを奏でているのを感じていた。
その日のアトリエは、いつもより活気に満ちていた。拓人が珍しく、大声で歌を歌っている。それは、どこか懐かしい昭和のロックンロールだった。彼の声は、路上で聞くよりもずっと伸びやかで、心の底から楽しんでいるのが伝わってくる。美緒は、拓人の歌に合わせて、リズミカルに鑿を動かしている。その動きは、まるで歌のリズムに合わせて踊っているかのようだ。
律は、彼らの楽しそうな姿を見て、自然と笑みがこぼれた。こんな風に、誰かの「音」に合わせて、自分の「音」を出せる場所があるというのは、なんて素晴らしいことだろう。
灯は、いつものパーテーションの奥ではなく、少し手前のテーブルで絵を描いていた。ヘッドホンはつけているが、時折、拓人の歌声に耳を傾けるように、顔を少しだけ上げるのが見えた。律は、灯の隣に座っている結月に、そっと声をかけた。
「星宮さん、今日は、いつもより楽しそうですね」
結月は、律の言葉に微笑んだ。「うん。風見くんの歌、好きなんだって。言葉には出さないけど、絵に、その時の気持ちが表れることがあるんだ」
律は、灯のタブレットの画面を覗き込んだ。そこには、躍動感あふれる音符たちが、色とりどりの光となって、空中を舞っているようなイラストが描かれていた。それは、まさに今、このアトリエで奏でられているコンチェルトを絵にしたかのようだった。灯は、沈黙の中に、こんなにも豊かな音色を感じ取り、それを絵で表現しているのだ。律は、灯の「沈黙の音色」が、実は、誰よりも繊細で、豊かな感情に満ちた「音」なのだと気づかされた。
拓人が歌い終わると、アトリエには温かい拍手が沸き起こった。美緒が、石膏まみれの手で、大きな拍手を送っている。
「いやー、やっぱり歌うっていいな!」拓人は、汗を拭いながら、満面の笑みを浮かべた。「お前らも、なんか音出してみろよ!」
拓人の言葉に、美緒は照れたように顔を伏せたが、その表情は明るかった。そして、灯は、小さく頷くように、律の方に視線を向けた。
「和泉くんは?何かできないの?」結月が優しく尋ねた。
律は、言葉に詰まった。自分には、これといって誇れる才能も、表現できる術もない。今までずっと、「見えない音符」として、ただ漂ってきただけだ。
「僕、何も…」
その時、律の視線が、アトリエの隅に置かれた古いピアノに止まった。黄ばんだ鍵盤。祖父が直してくれたと、結月が言っていた。律は、あのピアノから流れてきた、不揃いながらも温かい音を思い出した。
「あの…ピアノ、弾いてもいいですか?」
律の言葉に、アトリエの全員が驚いた。律自身も、なぜそんな言葉が口から出たのか分からなかった。だが、一度口に出してしまうと、もう後には引けなかった。
拓人が目を丸くした。「お前、ピアノ弾けんのか?」
律は、首を振った。「いえ…ほとんど。でも、なんだか、弾いてみたいって、今、思いました」
結月は、優しく微笑んだ。「もちろんいいよ。おじいちゃんも、このピアノがまた音を出すのを喜んでくれるから」
律は、ゆっくりとピアノの前に座った。鍵盤は、ひんやりと冷たい。指を置くと、その感触が、直接心に響くようだった。どんな音を出せばいいのか、全く分からない。ただ、このアトリエの空気に身を任せ、心の中に眠る「見えない音符」を探すように、律は震える指で、そっと鍵盤を叩いた。
ポロン。
澄んだ、しかし不器用な音が、アトリエに響き渡った。それは、完璧な音ではない。けれど、律の心の奥底から湧き上がってきた、初めての「音」だった。その音は、美緒の鑿の音と、拓人のギターの響きに、そして灯の描くイラストの光に、静かに、けれど確かに、寄り添うように重なっていく。
律の心の中で、「見えない音符」が、少しずつ形を成し、響き始めたのを感じた。それは、不揃いで、まだ拙いけれど、確かに律自身の「音」だった。この路地裏のアトリエで、彼らの奏でるコンチェルトに、律の新たな「音符」が加わろうとしていた。
夜の帳が降り始め、アトリエの窓から、都会の灯りが遠く瞬いていた。それぞれの孤独な魂が、ここで響き合い、新しいハーモニーを紡ぎ始める。それは、律にとって、希望に満ちた予感だった。
続く
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