第5話 沈黙の音色

アトリエ「ノクターン」での日々は、律にとって、単調だった日常に新しいリズムを与えていた。コンビニのアルバイトを終えると、自然と足は路地裏へと向かう。誰かに話しかけるわけでもなく、ただそこにいるだけで、律の心は少しずつ満たされていった。


その日も、律がアトリエのソファに腰を下ろすと、まず耳に飛び込んできたのは、瀬戸 美緒が石膏を叩き割る荒々しい音だった。彼女は相変わらず、自らの作品に苛立ちをぶつけている。その音は、美緒の内面で渦巻く激情をそのまま表しているかのようだった。


一方、風見 拓人は、窓辺でスマートフォンを操作しながら、時折、つまらなそうにギターを爪弾いている。いつもの情熱的な演奏とは異なり、その音はどこか投げやりで、彼の心に淀む停滞を表現しているように聞こえた。


そして、星宮 灯は、いつものようにパーテーションの奥に隠れ、ヘッドホンをつけてタブレットに集中していた。彼女の周囲だけは、アトリエの他の場所とは異なる、ひそやかな空気が流れている。律は、灯の描く絵が好きだった。SNSで見る彼女の作品は、どれも鮮烈で、見る者の心を揺さぶる力があった。だが、現実の灯は、まるで薄い膜に包まれているかのように、誰の言葉も、誰の視線も寄せ付けない。


律は、灯の姿をじっと見つめた。彼女は、アトリエで最も「音」を発しない人物だった。拓人のギターのように直接的な音も、美緒の彫刻のように荒々しい音もない。ただ、黙々と描き続ける彼女の存在からは、まるで聴こえない「沈黙の音色」が響いているようだった。それは、律自身の心の中に響く「見えない音符」と、どこか似ている気がした。


佐倉 結月が、律の隣にそっと座った。「星宮さん、いつもああなんだ。外に出ると、もっと大変みたい」


律は、結月の言葉に頷いた。灯がアトリエに来ること自体が、彼女にとってどれほど大きな一歩なのか、律には想像もつかなかった。


「SNSの絵、見たことありますか?」律は尋ねた。


「うん。すごいよね。あんな絵を描く人が、あんなに小さくなっちゃうなんて」結月は寂しそうに言った。「でも、ここにいる間は、少しだけ楽みたい。誰にも見られてないって思えるから」


律は、灯の置かれている状況を理解した。彼女にとってのアトリエは、自分の身を守るためのシェルターなのだ。しかし、同時に、彼女はそこでしか表現できない「音」を必死に紡ぎ出している。


数時間が過ぎた頃、灯がヘッドホンを外し、大きく息を吐いた。彼女はタブレットを閉じ、パーテーションの隙間から、恐る恐るアトリエ全体を見渡した。そして、律と結月に視線が止まると、ビクリと肩を震わせ、すぐに視線を外した。


その瞬間、灯の周りの空気が、一瞬にして凍り付いたように感じられた。彼女が発する「沈黙の音色」は、言葉を持たない代わりに、恐怖と孤独を強く訴えかけてくるようだった。


律は、どうにかして彼女に何か声をかけたいと思った。しかし、どんな言葉も、この沈黙の音色を壊してしまうような気がして、口を開くことができなかった。


その時、拓人が立ち上がり、ギターを背負った。「悪い、今日はもう行くわ」


拓人は、灯の方には目もくれず、そのままアトリエを出て行った。彼の背中からは、灯が放つ「沈黙の音色」から逃れるかのような焦りが感じられた。


残されたアトリエに、再び沈黙が訪れる。律は、この場所が、決して心地よさだけを提供してくれる場所ではないことを悟った。ここでは、それぞれの「音」が、時には互いの痛みをえぐり出し、時には新たな葛藤を生み出す。


律は、美緒の彫刻が持つ怒りの音、拓人のギターが奏でる諦めの音、そして灯の沈黙の音色を、心の中で反芻した。自分自身の「見えない音符」は、一体どんな音を出すのだろうか。そして、このアトリエという場所で、その音を、誰かに聞かせることができるのだろうか。


外から、遠くで救急車のサイレンが聞こえてきた。都会の喧騒が、アトリエの壁を隔てて微かに響く。沈黙の音色は、まだ続く。だが、律は、その音色の中に、新たな発見の兆しを感じ始めていた。


続く








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