花天月地【第38話 強さと、弱さと】
七海ポルカ
第1話
額に手を添えられる。
うっすらと瞳を開くと、見慣れない女性が自分の額に手を触れて、こちらを覗き込んでいた。
「……。」
「目が覚めましたか? ……とはいえ、まだ起きてはいけません。
お医者様は今晩はゆっくり休まないと熱は下がらないと言っていましたよ。
数秒ぼんやりと話を聞いていたが、ハッ、と次の瞬間青年の瞳ははっきり開いて、飛び起きようとした。
布団ごと、思い切り押さえ込んでやる。
「うっ!」
丁度起き上がろうとした絶妙な瞬間に押さえ込まれて、青年は寝台に戻った。
「ご無礼を。
「…………
目眩がして、陸議は思わず両手で顔を覆った。
「はい。
記憶が少しずつ戻ってくる。
そうか、洛陽に母親がいると、確かに聞いていた。
彼は実家に連れてきたのだ。
「………………彼は……?」
ここに来るまでの、休んでくれ、いや休んでる場合ではないのだという煩わしい問答をしたことも思い出した。
結局自分は倒れたらしい。
徐庶の言う通り愚かな虚勢だったと、寝台に寝かされ完全に病人であることを実感した今は、ようやくそう受け止められた。
「申し訳ありません。明け方、一度様子は見に来たのですけれど。
どうしても陣を離れられないということですので、すでに出立しました。
あなた様が目を覚まされたら、この文をお渡しするようにと」
側の台の上にあった竹簡を陸議に渡す。
寝たまま開いて読むと、
病のことは一言も出していないので、とにかく安静にし、熱が下がったら合流すればいいとし、司馬懿にこの件を報告した時、長安を過ぎ、戦場に近づくまでは特に自分は頼む用事はないので、徐庶の副官として報告なしで好きに使っていいと言われたから、安心して療養してくれということも書いてあった。
子供のように駄々をこねたばっかりに気を遣わせてしまったと、自覚する。
竹簡を丁寧に畳んだ。
まずは確認だ。
「……今は……」
「貴方は息子が昨日の夜中に連れてきました。
今は翌日の夕方です。早朝に先生が来られた時、一度目を覚まされて薬湯を口にされましたけど、覚えていますか?」
小さく首を振る。
何も覚えていない。
なにか、夢ばかり見ていた気がする。
「そうですか。ずっと眠っておられました。
けれどそのおかげで熱が確かに下がって来ています。
もう一晩静かに眠れば、明日朝には熱は完全に下がるでしょう。
先生が貴方が起きられたら薬湯をもう一度飲んでいただくようにと。
今、準備いたします」
「母君……」
部屋を出て行くところで呼び止められ、彼女は振り返る。
「…………あの……申し訳ありません……このようなことで徐庶殿にも、……母君にもご迷惑をお掛けしてしまって……」
母親は笑った。
「気になさらないで。
元々洛陽の街には戻らないつもりだったけれど、貴方をここに連れてくる用事が出来たから来たのだと。
貴方が来て下さらなかったら、またあの人は近くに来たのに顔も見せず、涼州などという遠いところに行こうとしていたのですから。
おかげで私も、息子の元気な顔が見れました。
感謝いたします」
彼女が出て行くと、陸議はもう一度、手の中の竹簡を読み返した。
確かめるように病のことは誰も知らない、自分の副官に司馬懿が任じたので、彼に報告もいらないと彼自身から言われたと書いてある部分を見る。
……少し安堵した。
全身の力が抜ける。
もう一度文を眺めると、ふと気づく。
徐庶の書く字を初めて見た。
とても美しい字を書く人なんだなと、そんなことを思った。
別にどんな字を書くのか、何か思っているものがあったわけではないけど。
「薬湯です」
徐庶の母親がやって来る。
陸議はゆっくりと身を起こした。
ずっと眠っていたのでまだぼんやりするが、熱は確かに下がってきていることを感じる。
「……ありがとうございます」
薬湯をゆっくり、一口喉に入れた。
側でそれを見ていた徐庶の母がくす、と笑った。
「……?」
「ああ……ごめんなさい。本当にお若いと思って。
息子は、貴方が総大将である司馬懿様の副官などと言っていましたけど」
「……はい。……有り難いことに、そう任じていただいています」
「そうなのですか。半信半疑でしたけれど、才があればどんなに若くても取り立ててもらえるとあの子は言っていましたから。本当なのですね。優秀でいらっしゃる」
「いえ……」
窓の外を見た。
夕陽だ。
雨が降っていたと思ったけどいつの間にか晴れている。
「……今日は一日中、晴れていましたか?」
「雨は明け方に止んで、それ以降は降っておりません。
美しい夕暮れ……なにか?」
「いえ……。一日中晴れていたのなら……行軍は滞ってないはずですから。
先行していた
置いて行かれたことを気にしているのだろう。
しかしすぐに戦闘にはならないため、心配はいらないと徐庶は言っていた。
「こういうことは、ジタバタしても仕方ありませんよ」
「えっ?」
突然、薬湯を飲み終わっても茶碗を持ったまま、考え事をしている青年の手から茶碗を取り上げ、徐庶の母は、さあもう一度寝なさい寝なさいと陸議を急き立ててくる。
「あの……母君……」
「完全に熱を下げたかったらとにかく寝ること。
焦っても熱は下がりません。
涼州までは遠いのですから、二、三日の遅れくらいどうということはないのです。
最終的にみなで辿り着いていればいいのですから。そんなあれこれ考えてないで。
さぁ、お休み下さい」
無理に寝かされてしまった。
陸議が横になると、それでいいのですと母親がにこと笑い、茶碗を側の台に置いた。
彼女はその時、徐庶の書いた竹簡に気付き、そっとそれを手に取った。
中を見ている。
「あの……何か?」
陸議は声を掛けた。
母親が顔を上げる。
「ああ……申し訳ありません。息子の手紙が珍しくて」
徐庶の母のことは、
普通に考えれば人質なのだが、司馬懿はそういうわけではないと言っていた。
確かに、この暮らしを見れば人質扱いを受けているとは思わなかった。
徐庶の母が曹魏に捕らえられていたのも、
恐らく、その土地の領主絡みのことなのだろう。
「よければ……置いていきます」
陸議は言った。
あまりに大事そうに読んでいるのでそんな風に言うと本当に嬉しそうに、彼女はありがとうございますと言った。
「陸議様は……息子の剣技を見たことがありますか?」
「徐庶殿の剣技……ですか? いえ……残念ながらまだ……」
「そうですか。私も一度も見たことがないのです。
「……ああ……」
徐庶の母はあまり、息子のことを知らないようだ。
ずっと離れて暮らしていた、そういうことを徐庶が言っていた気がする。
うろ覚えだったが。
だが元々徐庶は軍師だ。
長安で役人勤めをしている方が、彼の才能に合ってないのだ。
「………今回、徐庶殿をご自分の補佐をする軍師として任じられたのは、司馬懿殿ご自身です。あの方は慎重で細心な方です。才のよく分からない方をご自分の側で使ったりは決してなさいません」
「そう……そうなのですか。……そうですか……」
少しだけ彼女はそれを聞いて安心したようだった。
「剣の腕は、私は自分の目では見てはいませんが、前に大陸をしばらく一人で回っていらしたことがあると聞きました。
このご時世、治安はどこも不安です。
剣の腕がないのに一人旅など危険で出来ないと存じます。
ですから徐庶殿は剣の心得もきちんと持っていらっしゃるはずですよ。馬術もお上手ですし。あの方は涼州にも滞在したことがおありだと窺いました」
「涼州に……? 初めて聞きました。そうなのですか」
「はい。司馬懿殿から総指揮を任されている
私も知らないことがたくさんあったのですが、涼州は本当に、独特な風習と文化があります。あの土地のことを知っているだけで、今回の涼州遠征には有益なのです。
賈詡将軍も遠征出発前から、徐庶殿の能力を買っておられました。
なので……、
母君、どうかあまりご心配なさらないように」
母親は笑った。
「心配していただいたのですね。申し訳ありません。……お恥ずかしい話ですが、息子は早くに家を出ていて……私はあまり、あの子のことを知らないのです。
……そのような母親、信じられないかと思いますけれど」
陸議は小さく首を振った。
「……そんなことはありません。
私も、訳あって両親のことをあまり知りません。
……今朝、眠りながら朧気ですが、貴方と徐庶殿の話すのを聞いた気がします。
過去がどうあったにせよ、
…………今はとても仲のいい親子でいらっしゃるのだと、微笑ましく思いました」
「まあ」
徐庶の母が笑った。
苦労して来たのだろうと分かる白髪があり、顔に皺もあったが、笑顔の温かい女性だった。そういえば、彼の抱えている複雑な事情を考えれば当然だと思うが、徐庶はあまり笑みを見せない男だった。
穏やかで物静かなので、笑わずとも印象は柔らかい。
だが陸議はまだ徐庶が普通の人のように声を出して笑っている姿は見たことがない。
徐庶の笑顔は、この女性に少し似ているのだろうか?
「お客様が起きていらっしゃるとは知らず、見苦しい話を」
「そんなことは」
「喋りすぎましたわ。さぁ、もう一度お眠りになってください陸議さま」
彼女は立ち上がる。
椀と文を手にして歩き出した。
「……母君、このたびは、本当にご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。
けれど、……助かりました」
徐庶の母は微笑み、頷くと部屋を出て行った。
夕陽が差し込んでいる。
明日の早朝に発ちたかったので、ちゃんと眠ろうと目を閉じた。
時折かたん、と小さな物音が聞こえてくる。
もう一度目を開いた。
綺麗に整えられた客間だ。
花も飾ってある。
庭もあるようだし、家具も良いものだ。
曹操が徐庶の母に用意したものだと聞いたけれど、あの女性がこの家で平穏に暮らしていることは陸議にも感じられた。
徐庶は今、長安にいて、そこで任官を受けているというが、軍師として蜀と戦うのが辛いので、これからは政治に関わって行きたいと望んでいるらしい。
洛陽で任官を受ければ、この家に戻ることも出来るだろう。
母親への長い間の無沙汰を徐庶が非常に気にしていることは、二人の会話を聞いても感じた。
徐庶が自分の軍師としての才に拘るようなら、それを生かせない任官は不幸かもしれないが、彼は軍師としての才を惜しむより、戦場で劉備と相まみえることの方をずっと恐れている。
そのためには本当にその才を捨てられるかもしれないのだ。
時折剣術指南などもして洛陽の街に居を構え、あるいはこの家に住み、母親の側で見守りながら暮らすことは――戦うことでしか自分の存在理由を確かめられない陸議や司馬懿は確かに、意味のないことだと考えるが、徐庶にとってはそう悪いことではないのではないかと思った。
慌てて、自分を追ってきた時の顔を思い出す。
そういえば、迷惑を掛けた謝罪もまだしていない。
魏軍に合流したらまずそれをしないと……。
考えているうちに段々眠気が襲ってくる。
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