第16話:宇宙の端っこと創造の波紋
光の通路の先は、夜明けの冷たい空気が満ちる、静寂の森だった。
二人が地上へと足を踏み出すと、背後の入り口は音もなく閉じられ、そこには苔むしたただの岩壁があるだけだった。
古代の訪問者たちが遺した聖域は、再び永い眠りについたかのように、その存在の痕跡を完全に消し去った。
鳥のさえずりが、まるで世界の再起動を告げるかのように、森に響き渡る。
八ヶ岳の山頂で観測されたという大爆発は、嘘のように静まり返っていた。
「…終わったのね」
レイナは、朝日を浴びながら深呼吸した。
彼女のコンソールには、託された膨大なデータが、新たな人類の叡智として静かに脈打っている。
「いや…始まったんだ」
大輔は、麓に広がる街並みを、そしてその先に続く世界を見下ろしながら言った。
その言葉を証明するかのように、レイナのコンソールが、世界中から集めたニュース速報をホログラムで投影し始めた。
『八ヶ岳山麓で、原因不明の局所的重力異常を観測。
GPSシステムに大規模な障害』
『国際宇宙ステーション、地球磁場に未知の周期的なパルスを確認。
専門家は困惑』
『世界各地の素粒子研究所で、ニュートリノ検出器が異常値を記録。
説明不能な現象』
それは、二人が星の心臓に仕掛けた「反重力の律動」が、地球という惑星に広げた、最初の波紋だった。
科学界は、突如として現れた説明不能な現象の数々に、大混乱に陥っている。
世界は、気づかぬうちに、もう後戻りできない場所へと足を踏み入れていた。
「僕たちは、この星の『端っこ』に立っているんだ」
大輔は、昇る朝日を見つめながら、静かに語り始めた。
「宇宙には、何もない暗黒のボイド空間がある。
でも、そのさらに先、宇宙が今まさに膨張している最先端…『宇宙の端っこ』では、何が起きていると思う?」
彼は、レイナに問いかける。
「そこは、まだ何もない『無』の領域だ。
そこに、僕たちの宇宙が流れ込んでいく。
空間が薄まり、その薄さを埋めようとして、真空から素粒子が生まれる…対生成が起きるんだ。
宇宙の端っこは、終わりであると同時に、新しい物質が生まれる、始まりの場所なんだよ」
彼の瞳は、物理的な宇宙の果てではなく、今、自分たちが立っているこの瞬間を捉えていた。
「僕たちが今いるこの場所も、同じだ。
古い常識と物理法則に支配された世界の、『端っこ』だ。
僕たちは、そこから新しい宇宙を踏み出した。
だからこそ、世界に混乱という名の『対生成』が起きている。
これから、新しい価値観、新しい技術、新しい世界が、ここから生まれていくんだ」
彼の言葉は、レイナの胸に、確かな覚悟を灯した。
そうだ、恐れることはない。
これは、新しい世界の産声なのだ。
「計画を立てましょう」
レイナは、ホログラムを操作し、地球の立体地図を投影した。
「この力を、世界に示すための計画を」
彼女の指が、太平洋上に浮かぶ一つの孤島を指し示した。
「ここは、かつて私が所属していた、表向きは海洋資源開発を目的とした研究機関の、秘密施設があった場所よ。
今は放棄されているけれど、GEEドライブを建造するために必要な、高エネルギー実験設備と、特殊合金の精錬プラントが眠っているわ」
「そこを、僕たちの造船所にするんだな」
「ええ。そこで、最初の『翼』を作る。
そして、私たちがパイロットとなって、この力が戦争の道具ではなく、人類を星々へと導く希望なのだと、世界に示すのよ。言葉ではなく、事実で」
それが、二人が選んだ第三の道だった。
支配でも混沌でもない。「示す」という道。
目的地は決まった。
しかし、問題はどうやってそこへ辿り着くかだ。
彼らは今や、世界で最も重要な機密を握る、最重要指名手配犯でもある。
『調律者』のネットワークは、今も執拗に二人を追い続けているはずだ。
二人は、森を抜け、人里へと続く道を慎重に下っていった。
人気のない林道に出た、その時だった。
一台の、何の変哲もない国産のセダンが、道の先に停まっているのが見えた。
二人は咄嗟に身構えた。
罠か?
車のドアが開き、中から一人の男が降りてきた。
それは、意外な人物だった。
数日前、国際物理学会の壇上で、大輔の理論を「出来の良いサイエンスフィクション」と一蹴し、嘲笑の渦の中心にいた、あの白眉の老教授だった。
だが、今、彼の目に侮蔑の色はなかった。
その代わり、深い探究心と、そしてほんの少しの畏敬の念が浮かんでいた。
「…やはり、君たちだったか」
教授は、まるで全てを知っているかのように言った。
「あなたこそ、なぜここに…」大輔が警戒しながら問う。
教授は、苦々しい笑みを浮かべた。
「わしも、かつては真理を追う者だった。
だが、いつしか権威という名の鎖に繋がれ、見たいものしか見ない、臆病な老人になってしまった。
だが、君のあの発表は…そして、その後に起きた世界の異常は、わしの心の奥底で燻っていた、最後の火種を再び燃え上がらせたのだよ」
彼は、懐から一枚のカードキーを取り出した。
「『調律者』は、学会にも深く根を張っている。
わしは、彼らの監視下で、ずっと君たちのような『異端者』が現れるのを待っていたのかもしれん。
そして、彼らの目を欺き、君たちに力を貸す準備を、密かに進めてきた」
教授は、カードキーを大輔に差し出した。
「これは、スイスにある非公式のプライベートバンクの鍵だ。
匿名で、莫大な資金を引き出すことができる。
翼を作るには、金も必要だろう。そして…」
彼は、セダンのトランクを開けた。
中には、新しい身分を証明する偽造パスポートと、追跡不可能な通信端末、そして世界各地に散らばる、彼の「本当の同志」たちの連絡先リストが入っていた。
彼らは皆、学会や大企業の中で、既存の権力構造に疑問を抱き、静かにその牙を研いできた者たちだった。
「世界は、君たちが思うより、腐りきってばかりではない」
教授は、力強く言った。
「行きたまえ、若者たちよ。
そして、我々が見失ってしまった、本当の星空を見せてくれ」
それは、予期せぬ、しかし何よりも心強い支援だった。
大輔とレイナは、深く頭を下げると、教授が用意したセダンに乗り込んだ。
車が静かに走り出す。
バックミラーに、遠ざかっていく老教授の姿が映っていた。
二人の冒険は、もはや孤独な逃亡劇ではない。古い世界の殻を破ろうとする、多くの見えざる意志を乗せて、今、新たな大海原へと船出したのだ。
目指すは、太平洋の孤島。
人類の新たな創生の地。
そしてその先にある、無限の星々の海へ。
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