第6話:量子世界の囁きと鋼鉄の狩人

夜の帳(とばり)を切り裂き、黒く塗装されたオフロード車はアスファルトの上を滑るように疾走していた。


都市のネオンは遠く背後に消え去り、今は規則的に流れ去る高速道路のオレンジ色の照明だけが、二人の逃亡者を照らしている。


レイナは寸分の狂いもないハンドルさばきで、闇に溶け込むように車を走らせていた。


助手席で、大輔はノートPCの画面に映る複雑な数式を眺めていたが、ふと顔を上げた。



「レイナ、君は量子力学をどう思う?」



唐突な問いに、レイナはバックミラーで後方を確認しながら答えた。


「美しい数式で構築された、ミクロの世界の法則。

でも、時々、あまりに直感に反していて、まるで魔法を見ているような気分になるわ。

特に、Wボソン…中性子が崩壊する過程で現れるというのに、元の中性子より遥かに重いなんて」


「『母親より重い赤ん坊』か」大輔は不敵に笑った。


「学会の連中は、それを『不確定性原理によるエネルギーの借用』なんて小難しい言葉で片付ける。

でも、本質はもっとシンプルかもしれない」



彼は窓の外を流れる景色に目をやりながら、独自の宇宙観を語り始めた。



「ホワイトボードに貼り付いたマグネットを想像してくれ。

マグネット自体の重さは数グラム。

でも、それを引き剥がそうとすると、磁力に抗うために何十倍もの力が必要になる。

Wボソンも同じじゃないか?

我々が観測しているのは、ボソンそのものの質量じゃなく、それを時空から『引き剥がす』ために必要なエネルギーを、質量として誤認しているだけなんだ」


「…空間にシワを寄せる力…」レイナは、かつて大輔がヒッグス粒子について語った言葉を反芻した。


「あなたの理論は、いつもスケールが大きくて、それでいて詩的ね」



「宇宙そのものが、壮大な詩だからさ」


二人の間に、張り詰めた逃亡劇の中とは思えない、穏やかな知性の交感が流れる。

だが、その静寂は長くは続かなかった。




警告。

後方より高速飛翔体、3。

熱源パターン、軍用ドローンと一致。




腕時計型コンソールの合成音声が、冷たく現実を告げた。

バックミラーに、闇夜を切り裂く三つの赤い光点が映り込む。

それは、猛禽類のように無慈悲で、執拗な鋼鉄の狩人だった。


「来たわね!」


レイナの表情が一変する。

穏やかな研究者の顔は消え、極限状況を楽しむ熟練の戦士の顔が現れた。

彼女はステアリングに埋め込まれた赤いボタンを親指で弾いた。


「EMP、準備完了!」


ドローンの一機が急降下し、車体後部に搭載された機関砲が火を噴いた。

タタタタッ!アスファルトを削る金属音が、すぐ後ろで炸裂する。


レイナは車体をスライドさせ、銃弾の嵐を紙一重でかわした。


「今よ!」


大輔が叫ぶと同時、レイナがボタンを押し込んだ。

車体後部のパネルが開き、不可視の電磁パルスが後方へと放たれる。

ドローンの一機が、まるで電子回路を焼かれた虫のように火花を散らし、コントロールを失って高速道路の側壁に激突、炎上した。




「一機撃墜!でも、残り二機はパルスへの対抗策を講じてくるわ!」


レイナの予測通り、残りのドローンは距離を取り、今度は赤外線誘導式の小型ミサイルを発射してきた。



ヒュルル、と空気を切り裂く音が迫る。



「まずい!回避できない!」




絶体絶命。




その時、大輔が叫んだ。


「レイナ! あの理論を試すぞ!

車体の底に、瞬間的な斥力場を!

振動モーターの応用だ!」


「正気なの!? 不完全な理論よ!

車体が分解するかもしれない!」


「分解する前に、僕らが分解させられる!」


レイナは一瞬ためらったが、すぐに覚悟を決めた。

彼女の指がコンソールを叩き、リアクターで得られたデータを応用した禁断のプログラムを起動する。

車の底部に搭載された、緊急用の小型コンデンサにエネルギーが急充填された。



「3、2、1…今!」



ミサイルが車体に接触する寸前、レイナはエネルギーを解放した。


ゴッ、という鈍い衝撃と共に、車体はまるで巨大な手に突き上げられたかのように、物理法則を無視して宙を跳んだ。


ミサイルは車の下を空しく通り過ぎ、前方の路面で大爆発を起こす。


車は数メートルを跳躍し、激しく路面に叩きつけられた。


凄まじい衝撃に、二人の体はシートにめり込む。

だが、そのおかげで包囲網は突破できた。



「…やった…!」



息も絶え絶えに大輔が呟く。


しかし、安堵したのも束の間、前方のインターチェンジのランプウェイから、複数の黒い車両がサイレンも鳴らさずに現れ、行く手を塞いだ。


地上部隊の待ち伏せだ。



「ここまでね…」



レイナが諦めかけたその時、大輔の目が再び、狂気じみた輝きを放った。



「レイナ! 原子核のモデルを思い出せ!

陽子と中性子の間を電子が駆け巡り、全体を結びつけているジェットコースター!

僕たちの『斥力場』も、回転させられるはずだ!」


意味不明な言葉。


しかしレイナは、その言葉に込められた真意を、直感で理解した。


「斥力場のベクトルを…回転させる…!?」


「そうだ! 車体の重心を軸に、斥力場を螺旋状に回転させるんだ!

どうなるか分からない。でも、やるしかない!」



もはや、論理的な思考を超えた領域だった。

レイナは最後の賭けに出た。斥力場の発生パターンを、螺旋を描くようにプログラムし、再解放した。



次の瞬間、オフロード車は信じられない挙動を示した。

車体そのものが、まるでフィギュアスケーターのスピンのように、高速で水平回転を始めたのだ。


遠心力で、二人の意識が飛びそうになる。

待ち構えていた敵車両の部隊は、ドリフトともスリップともつかない、あり得ない動きで突っ込んでくる車を前に、ただ呆然とするしかなかった。


黒いオフロード車は、回転しながら敵車両の隙間をすり抜け、ガードレールに火花を散らしながら、八ヶ岳へと続く山道へと突っ込んでいった。


追手を振り切った時、彼らの乗る車は満身創痍で、あちこちから煙を上げていた。


二人は八ヶ岳の麓にある、寂れたドライブインに車を乗り捨てると、夜の森へと姿を消した。


装備のほとんどを失い、体は傷だらけだった。

しかし、彼らの心は燃えていた。


不完全ながらも、彼らは「反重力」の力を、現実世界で行使したのだ。


「ここからは、歩くしかないわね」レイナが、険しい山道を見上げながら言った。


「ああ」大輔は頷いた。


「あの山のどこかに、賢者が待っている」




星空だけが、二人の行く末を見守っていた。




彼らの手の中には、宇宙の常識を覆す理論と、それを証明する力が、確かに存在していた。



そしてその力を恐れる者たちの影もまた、すぐそこまで迫っていた。

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