狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした

釜瑪秋摩

プロローグ

第1話 ことのはじめ

 椿京つばききょう──東と西が交錯する近代都市。白漆喰の町家が並び、軒先では狐面が風に揺れ、通りには人力車と馬車がすれ違っていく。文明開化の光が射す一方で、どこか古めかしい静寂が都市の底に息づいていた。


 鈴凪すずなは、竹籠の入った風呂敷を抱えて、その異質な豪邸の前で足を止めた。


 門の前に立つと、不思議な空気が肌に触れる。ひやりとした風が髪をすくい上げ、音が遠ざかっていく。まるで、世界が一枚の絹を隔てているかのような感覚──それが、朝霞あさか邸の印象だった。


 門の上には銀の紋が刻まれていた。すすきの穂が左右から寄り添い、根元で結ばれている文様。


「……本当に、契約結婚の話なんてあったのね」


 小さく息を吐き、言葉にしたのは自身への確認だった。

 私がここへ嫁ぐ――?

 一年間だけ、形式的な妻として。

 それが自分の人生の分岐になるとは、この時の鈴凪はまだ思っていなかった。



 鈴凪がその話を耳にしたのは、借金取りに追われて家から逃げていた時だった。母を病で亡くし、父もその後を追うようにして逝った。家は父の借金で没落し、書生として働いていた日々も遠くなった。

 数年間、あちこちの村や町を渡り歩き、たどり着いた都下の小さな村の片隅。古書店で昼の手伝いをしながら、鈴凪は必死に働いていた。


時雨しぐれさん、椿京にある朝霞邸って知っています?」


 ふと店主がそう言った。


「豪商の御屋敷でね。そこの旦那が、契約で妻になる女性を探しているって噂があるのだよ。奇妙な話だよね」


 ただの噂話だろう、と鈴凪は思った。信じるには突飛すぎる話。もしかすると、貴族の政略結婚のようなものだろうか?

 きっと、そうであろうに違いない、と思いながら、店主に問いかけた。


「その契約って、形式だけのものなのですか? 政略結婚とは違うのですか?」


「さあねえ。詳しいことは聞いていないけれど、かなり条件が良いらしいよ」


「条件……」


 店主は曖昧に言葉を濁すと煙草をくゆらせた。その手の中にある煙管きせるは、美しい狐とすすきの蒔絵が施されている。以前、それとなく店主と話していた時、その煙管はあやかしの意匠だと言っていた。古い友人が人の世界で暮らす妖たちと懇意にしていて、譲り受けたものだと。


 この国の首都に近い椿京には、昔から人と妖が共存していると噂されている。椿京にほど近いこの村にもそんな噂があり、鈴凪はそれとなく人々を観察しているけれど、誰もかれもが皆、人でしかなく、妖がいるなどと到底信じられずにいた。

 けれど、時々こうして妖にまつわる道具や本、美術品を目にすることがある。



 その夜、私は曽祖母であるの遺品を整理していた。父や母の形見はほんの少しの本と小物だけで、お金になる物は全て売られてしまった。ちよの遺品も僅かなものしか残っていない。これらは母から、絶対に手放してはいけないと言い含められていて、竹籠に入れて大切に手元に置いている。

 これまでは埃を払う程度だったのを、今日は一つ一つ手に取って、竹籠に収めた。古い手鏡、懐中時計は、今でも十分に使える。


 そして――。


「鈴凪、あなたはすずなのよ。お母さんの祖母……鈴凪の曽祖母が、そう言っていたの」


 母は鈴凪にそう話した。曽祖母は、私が物心つく前に亡くなってしまったので、記憶には何も残っていないけれど、遺された品々には不思議と懐かしさを感じている。特に代々受け継がれている銀の鈴……。

 鈴凪には、鈴の娘の意味はわからなかったが、母の言う『鈴』というものが、妖や神と関係することは、薄々気づいていた。


「ごめんくださいませ」


 長屋の引き戸の向こうから声を掛けられ、鈴凪は慌てて荷物を竹籠へと詰め込んだ。借金取りが、もう、この居場所に気付いたのだろうか。これ以上、お金に変えられるものはないし、手元のお金も僅かばかり……。

 ただ、借金取りにしては丁寧な口調なのが気になった。


「……はい」


「こちら、時雨さまのお宅で間違いないでしょうか?」


「はい……あの……どちら様でしょうか?」


 鈴凪は問いかけながら、そっと引き戸を開けた。細く開いた隙間の向こうには、小さな箱を手にした女性が立っている。どこかの使用人のような格好だ。


「私は朝霞開発の朝霞家よりやって参りました。こちらの鈴凪さまへお願いがございます」


「お願い、ですか?」


 朝霞開発は、鈴凪も名を知る大企業だ。そんな所の関係者が、鈴凪に用があるというのが不思議だった。今度はきちんと戸を開き、相手に向かって頭を下げる。


「失礼いたしました。私が時雨鈴凪しぐれすずなです。お願いというのは何でしょうか?」


 女性は手にした箱の包みを開き、一通の書状を差し出した。


「この度、当主の朝霞理玖あさかりくより、契約による婚姻を結びたいという旨の書状を預かって参りました。是非一度、お話をさせて頂きたく――」


 契約による婚姻……。

 突然のことに困惑しながらも、古書店の店主の話を思い出し、鈴凪はつい曖昧な返事をしたのだった。



 そして、今――。


 朝霞邸の門前。

 昨夜、受け取った書状を手に、鈴凪は成り行きで、ここに立っている。


 門が静かに軋んだ音を立て、独特な気配が、扉の奥から滲み出てきた。


「あなたが時雨鈴凪さん、ですか」


 呼びかけられて鈴凪は顔を上げた。目の前には、黒羽織の青年が立っていた。


 ──美しい、と思った。


 それが初めての感想だった。

 ただ、その美しさは、普通の人とはどこか違う気がした。

 彼の瞳は琥珀色で、獣のような冷たさを帯びていた。銀の指輪が左手に光り、立ち姿はまるで絵巻の登場人物のように見える。


「はい。時雨鈴凪です。朝霞様……ですね」


 言葉が喉の奥で震えるのを押さえて問いかけた。彼が静かに頷くと、後ろに控えていた使用人たちに促され、鈴凪は屋敷の居間に通された。


「あの……それで、契約による婚姻というのは……」


「まずは簡単にご説明します。これから一年間、形式上の妻であること。書面上の婚姻関係を結び、朝霞邸に暮らす。あなたの自由はある程度、制限されます。外出は許可制。契約の秘密は漏らしてはならない。この契約について、外部では黙っておくこと──以上が条件となります」


「契約については秘密……ですか?」


 鈴凪は耳を疑った。既に古書店の店主も知っているほど噂になっているようなのに、今さら、秘密にしなければならないのはなぜなのだろう。

 理玖の瞳はまっすぐ鈴凪を見つめている。


「不服ですか? 秘密を守ることもできないほど、口が軽いようでは困るのですが」


 棘のある言い方に、鈴凪は驚いた。初対面であるのに少し失礼なのではないか……そんな風に感じていた。観察しているような、様子を伺っているような、そんな理玖の視線も気になった。


「え……いえ、不服だなんて、そんなことはありません」


「私は昔、ある人と約束を交わしています。いつか時雨家に何かあったら助けてやってほしい、と――。今、この契約を機にその手助けができるかと」


「ある人……?」


 ある人とは誰だろう?

 鈴凪には身内と呼ばれるような親戚などいないし、過去に誰かが何かを頼んでいるとしたら、父か母しか思い浮かばない。けれど、父や母なら、『ある人』などと曖昧な言いかたをするはずがない。


「……それでも、この婚姻は契約ですよね。助けていただくのは有難く思いますが、私は道具ではありませんので、契約以上のことは致しません。ですが、契約をする以上は、約束は必ずお守りします」


 本当に有難い話ではあるけれど、鈴凪は人として扱われていないような気持ちになってしまい、つい、不躾な言葉が口をついてしまった。


「承知しています。条件さえ守っていただければ、それで構いません。ですが、私どもはあなたを道具だなどと思ってはいない。鈴の名を持つ者が、ただの道具であるはずがないのですから」


「どうして、そう言い切れるのですか?」


 理玖は、小さく微笑した。その笑みは、冷たさを少しだけ溶かしていた。


「それはいずれ分かることかと」


 その時、鈴凪の風呂敷の中で、小さな音が鳴った。誰も触れていないのに、銀の鈴が、かすかに震えていた。この鈴は曽祖母から祖母へ、そして母へと受け継がれ、今は鈴凪の手元に残っている。


 椿京近郊では、音を出さぬ鈴を持ち歩く風習が一部の人に残る。それは「まだ叶っていない願い」を秘めた証とされ、願いが成る時、もしくは真実を告げる時、鈴が鳴るという。鈴凪の銀の鈴も、その鈴だ。

 それが今、音を奏でた。鈴凪は何も願っていないのに、何が叶ったと言うのだろう?


「鈴凪さん。ここが、これからあなたの家となる――そして、私の妻として過ごしていただく場所です」


 それから私は、今後の生活について、契約の詳しい内容、書類などの整備についての説明を受け、屋敷を後にした。


 門の内側は不思議な空間だった。

 灯籠の火が揺らぎ、赤い欄干が並び、竹林が霧をまとう。その灯籠の火が、まるでこちらを見ているかのように揺れていた。

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