その彼方に見えるのは

 こつこつと、廊下に上履きの音が響き渡る。その音を聴くと、なんだか寂しいような、でも少しだけ嬉しいような、そんな感じがする。木目がはっきりと見えるこの廊下は、風化によってその模様が少しかすれてしまっているけど、それでも木のぬくもりは残っている。

 そんなことを考えながら階段を下り、踊り場を抜けていく。ここには小さな黒板があって、手書きの、どこか丸みを帯びた筆跡で、今日の日付と天気が書かれている。その横にはこいのぼりと葉っぱが描かれていて、なんとなくさっきの授業を思い出す。階段を下り終えて玄関に向かうと、そこには風咲さんがいた。え、風咲さん?どうしてここに…。

「あ、道下くん。もしよかったら、一緒に帰らない?」

「えっ、と、いいよ。あんまりおもしろい話はできないけど…」

 落ち着け、自分。別に初めてってわけじゃない。うん、そうだ。

「そんな、ふふっ♪ただ帰るだけで十分だよ。」

 風咲さんはかわいらしく噴き出して、靴を履き始めた。おそらく、僕の顔は火照っている。そして、心臓もそれに呼応し、緊張度合いはいよいよ最高潮に達した。

「確かに…」

 僕はそう答えるので精いっぱいだった。


 二人で歩き始めると、なんだか懐かしい気分になった。

「そういえば、こうして一緒に帰るのって中学のとき以来だね。」

 艶やかな黒髪を揺らしながら、どこか嬉しそうな様子。

「えっと、そうだね。あー、卒業式の日だったっけ。」

「うん、そうそう。桜が咲き始めて、いよいよ春本番って感じの日だったなー。」

 僕はうなずきながら、華やかな帰り道に思いを馳せた。

 

「とっても綺麗。ほら。」

 まっしろな指が指し示す方向には、つぼみの開きかけたソメイヨシノがあった。今まで秘めていた力を開放するその様子を見ていると、思わず応援したくなる。その花弁は、ドレスのような華やかさと、着物のような上品さを併せ持っている。そんな気がした。

「綺麗でしょ。って、私が育てたわけじゃないんだけど。ふふっ♪」

 四分音符が付きそうなその笑い声を聴いて、僕の心は瞬く間に癒されていく。やわらかな空気に包まれて、初咲きの桜を愛でるその微笑みが、一層輝いて見えた。

 あちこちに桜の木があって、僕たち以外にも花見を楽しんでいる人がちらほらいる。近くを通りかかると、すかさずお祝いの言葉をかけられた。

「卒業おめでとう。高校も楽しんでね。」

「ありがとうございます。」

 二人で声をそろえてお礼を言う。なんか嬉しい。隣を歩く風咲さんの鼻歌を聴きながら山道を進んでいると、いつの間にか、海沿いの一本道に差しかかっていた。

「あっという間だったね。」

 そう言って微笑む彼女に、僕はたじろぐ。

「うん。めっちゃ楽しかった。」

 でも、やっぱり嬉しい。これまで幾度となく、その笑顔に癒されてきたから。

「よかったー。私も道下くんと一緒に過ごせて、とっても楽しかったよ。」

 え、い、いま、え、ん?今なんて?

「どうしたの?」

 風咲さんが不思議そうに見つめている。

「あ、いや、ごめん、大丈夫。」

「いいよいいよ。私の方こそ、急にこんなこと言ってごめんね。でも、本当にそうだったから。」

「そんな、謝らなくていいのに。」

 儚く散っていく桜の花びらが目に映る。

「それなら嬉しいな。これからもよろしくね♪」

「うん。」

 その声に、ぐっと力と思いを込めた。きっと、僕の顔には嬉しさがにじみ出ていたんじゃないかと思う。だからせめて、その表情で伝わっていたらいいな、と願う。ただの相づちだけでは、きっと伝わらないだろうから。

 気付けば二人して、途方もない海の彼方、まっすぐに伸びる水平線に気を取られていた。言葉を交わさなくても、居心地のよい空間。果てしないその静寂の中に、かすかなさざ波の音が聴こえたような気がした。


 思い出したのは、とても素敵な記憶だった。ついこの間のことだけど、なぜか遠い昔のことのようにも感じる。まるで物語の中の出来事のようで、でも、確かにそれは紛れもない現実だった。いまだに信じられないけど。

「そんな私たちも高校生になって少し経つけど、道下くんは何かしたいこととかある?」

「うーん、したいことか…今はまだないかな。」

「そうなんだ。私も同じ。でも、これから見つけられたらいいなー。」

 風咲さんは軽やかにそう言うと、少しだけスキップをした。どうしてこの人はこんなにかわいいんだろう。些細な動き一つとっても優雅で、可憐で、やっぱり僕の隣にはもったいない人だ。

「あ、そういえば、もうすぐ遠足だね。」

「ほんとだ。えっと、今週の金曜だっけ。」

「うん。お菓子買わないとねー。また一緒に買いに行かない?」

 えーっと?え、あー、つまりこれは…。

「僕でよければ、全然いいよ。」

「やったー♪私、いい駄菓子屋さん見つけたんだー。海沿いの道をずーっと進んで、駅の近くにあるんだけど、知ってる?」

「いや、知らない、かな。」

「それなら、私が案内してあげるよ。とっても素敵なお店で、この前たまたま見つけたんだけど、いつか入ってみたいなって思ってたの。」

「そうなんだ。」

「いつがいい?」

「風咲さんが決めていいよ。」

「そっかー。うーん、じゃあ、明日の放課後とかどうかな。」

「うん、いいよ。」

「ありがと。ふふっ、何買おっかなー♪」

 どうしよう。可愛すぎる。反則級に。心の中の自分が、大きくガッツポーズをした。だって、こんなに素敵な人と二人っきりでお菓子選びができるんだから。こんな贅沢してていいのかな…。幸せすぎるよー。今度は、心の中でありったけの歓声を上げる。お菓子好きなのかな。ふと空を見上げながら、そんなことを思う。

「山の上の公園まで行くんだよね。確か。」

「うん。」

「結構歩くみたいだから、足がもつか分かんないなー。」

「僕もあんまり運動しないから、ちょっと心配かも。」

「でも、話しながら歩いてたら、意外とすぐに着いちゃうかもね。」

「確かに。」

 でも、僕の心臓がもつかどうか…。今も元気に動いている心臓の鼓動を感じながら、少しだけ心配になる。まあでも、この人の声は聴いているだけでリラックス効果があるし、きっと大丈夫。それよか、風咲さんの声を聴きながら昇天できるなんて、僕にとってはご褒美だし。

 

 段々と海が見えてきた。一緒に歩いた卒業式の日が重なって、僕はさらに、隣にいる風咲さんを意識してしまう。どう思ってるのかなんて全く分からないけれど、風咲さんが退屈していないといいな、と願う。

「桜、もう散っちゃったね。」

「うん。」

 僕は視線を下に戻しながらそう答えた。少しだけ花びらがまだ残っていて、春の余韻を感じさせる。

「でも、散った桜も、私は好きだな。なんていうか、誰がが落としていった宝石みたい。」

 あっけにとられて反応できなかった。でも、風咲さんは僕の方をちらっと見ると、かすかに口角を上げた。あまりにも可愛すぎて、僕は少しうつむいてしまう。恥ずかしくなって顔をそらしたけど、すぐに思い直して、必死に考えを巡らせてみる。

「あ、ごめん。いや、その、おしゃれすぎるなと思って…」

「ごめん、忘れて。」

 風咲さんは少しだけ照れたような、でも心底嬉しそうな顔をしているようにも見える。この人が喜ぶ姿を見ていると、もう他のことなんてどうでもよくなってくる。ほんのり桜色の頬を見せてくれた風咲さんに、心からとびきりの感謝を伝えてみる。もちろん、心の中だけで。


 いつの間にか僕たちはベンチの前を通り過ぎていて、まっすぐに伸びる一本道を進んでいた。空全体が徐々に赤みを帯びてきていて、綺麗な夕焼けが顔をのぞかせている。

「綺麗だね。」

「うん。」

「明日もいい一日になりそう。ふふっ♪」

 その瞳に、鮮やかな期待があふれている。確かに、今日一日を締めくくり、まだ見ぬ明日へとバトンをつなぐ、頼れるアンカーのようにも見える。夕焼けに照らされる風咲さんの横顔もとっても綺麗で、思わず見惚れてしまう。

「どうしたの?」

「い、いや、なんでも。」

 とっさの出来事に、それしか言うことができない。顔が火照っている。あ、でも、夕焼けに照らされているから分かんないよね…。そんな心配をよそに、くすっと笑う風咲さん。

「ふーん、そっか。うーん、あ、もしかして…」

 な、なに、え、もしかして、ばれてる?い、いや、そんなまさかね。

「何か言おうとした?」

 やわらかく微笑むその姿は、いつ見ても純真さにあふれている。

「あ、いや、そうじゃなくて、えーっと、その、海に光が反射して見えたから、綺麗だなって…」

「あー、ほんとだね。道下くん、こういう景色見るの、好き?」

「うん。夕日を眺めたり、晴れてる日の青空とか、あ、あとは星を見たりとか、好かな。」

「そっかー。実はね、私も好きなの。なんだか心が落ち着いて、違う世界に連れて行ってくれそうな気がして。」

 静かに、そっと秘密を告げるような口ぶりだった。好きという言葉につい反応してしまって、僕の鼓動はまた速くなる。

 っていうか、ばれてなくてよかったー。もしばれてたら、夕日じゃ隠し切れないぐらい顔が真っ赤になってたかもしれないから。本当によかった…。でも、ばれてほしいな、なんて気持ちが、心の奥底にあるような、そんな気もする。これじゃただのわがままになってしまう。

 夕日に照らされる海辺を横目に、残り少なくなった帰り道を見据える。

「じゃあ、また明日ね、道下くん。」

「うん。また明日。」


 互いに別れを告げてから十数分。初対面でもないのに、それどころか、小学校からの長い付き合いだというのに、高鳴る鼓動を抑えられない。

 自分の部屋に入ってもまだその熱は冷めず、僕の頭の中は風咲さんのことでいっぱいになる。昔からこの調子だ。僕の隣を歩いてくれた風咲さん。遠足のお菓子を一緒に買う約束を交わして、心の底から喜んでくれた風咲さん。そして、夕日に照らされて儚げな佇まいの風咲さん。

 どの風咲さんも僕にとっては宝物で、あたたかくて、かけがえのない奇跡そのものなんだと思う。風咲さんが僕の進む道を照らしてくれたような気がして、心の奥底がじんわりと熱を持つ。

 そして、同時に不思議な感じもする。奇跡は起こすものではなく、見つけるものであり、名付けるもの。現実と物語はなぜか分け隔てられていて、この世界の人たちは、その境界を絶対的なものだと思っているのかもしれない。

 でも、どうしてか今はそう感じない。というか、そう感じたくないのかもしれない。信じていてよかった、と心から思う。だって、さっきまで隣にいてくれたあの人が、それを証明してくれたのだから。

 

 寝る前、夜空を眺めるのが習慣になりつつある。目の前に広がる星空はあまりにも魅力的で、いつの間にかその神秘的な様子に引き込まれてしまう。

 そんな魅力に取りつかれて、気がつけば星を眺めている。今日起きた出来事を振り返ってみると、目の前の星たちのおかげで、その輝きがさらに増すような気さえする。

 今日新たに生まれた奇跡と、目の前にある、でもやっぱり遠いその瞬きを重ね合わせてみると、とてつもなく満ち足りた気分になった気がして、自然と笑みがこぼれた。

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