第10話「二人の義経、交錯する運命」
鎌倉へ向かった八咫丸からの文が、
届くたびに、私の胸は波立った。
彼は「義経」として、
頼朝の警戒と、
配下の武士たちの冷ややかな視線の中で、
ぎりぎりの綱渡りを続けているようだった。
文には、戦場での武功が報じられる一方で、
京での彼の人気が、
かえって頼朝の不信感を
煽っていることが記されていた。
彼が名を上げれば上げるほど、
真の義経である私と、
その影である八咫丸の存在が、
危うくなる。
そんな矛盾した状況に、
私は焦りを覚えた。
京での「静御前」としての
私の暗躍は、順調に進んでいた。
私は連日、貴族たちの宴に招かれ、
その舞で人々を魅了しながら、
密かに情報を集めた。
平家残党の動向、
朝廷内部の複雑な人間関係、
そして、頼朝が京に送り込んでいる
密偵たちの存在。
得られた情報は、細やかに弁慶を通じて
八咫丸へと送られた。
私たち二人の連携は、
もはや阿吽の呼吸だった。
しかし、京の街には、
義経に対する監視の目が、
ますます厳しくなっているのも感じていた。
ある夜、私は警戒を強めていた。
藤原某の屋敷での宴を終え、
隠れ家に戻る途中、
見慣れない影に後をつけられていることに
気づいたのだ。
それは、明らかに訓練された
者の気配だった。
私は、路地の影に身を潜め、
追手の動きを伺った。
静御前として、
これまで幾度となく危機を
切り抜けてきた経験が、
私の身体を研ぎ澄ませていた。
しかし、その追手は一人ではない。
複数の気配を感じる。
逃げるのは難しい。
私は、覚悟を決めた。
舞で培った身体能力と、
かつて牛若として学んだ
剣術の素養が、
私の血肉には染み付いている。
舞扇の裏に隠した短刀に、
そっと指を滑らせる。
「静御前」として、
決して武を示すことのない私が、
今、その禁を破ろうとしていた。
その時だった。
闇の中から、別の影が躍り出た。
私の追手に向かって、
容赦なく斬りかかったのは、
八咫丸だった。
「八咫丸様!」
思わず声を上げそうになったが、
寸前で口を塞いだ。
彼は、京にはいないはず。
鎌倉にいるはずの「義経」が、
なぜここに?
彼の動きは、まさしく「義経」そのもの。
敵を瞬く間に斬り伏せ、
残りの追手を怯ませる。
私は、彼の見事な剣捌きに、
息を呑んだ。
まるで、私の知る八咫丸ではなく、
京で名を馳せるあの「義経」が、
目の前に現れたかのようだった。
八咫丸は、あっという間に追手を退けた。
残されたのは、私と彼、
そして倒れた男たちだけ。
彼は私に振り返り、面越しの瞳で
私の無事を確かめるように見つめた。
その視線に、安堵と同時に、
なぜ彼がここにいるのかという
疑問がわき上がった。
「なぜ、ここに……鎌倉では?」
私の問いに、八咫丸は静かに答えた。
「頼朝が、私を試すために、
密かに放った刺客だ。
鎌倉から追ってきた」
彼の言葉に、私は愕然とした。
頼朝は、既に「義経」を
そこまで疑っているというのか。
彼は続けた。
「私の影武者としての役割は、
もう限界だ。
このままでは、鎌倉で頼朝に潰されるか、
京で正体を暴かれるか、いずれかだ」
彼の声には、深い疲労と、
追い詰められた焦りが滲んでいた。
そして、彼の言葉の端々から、
「義経」という仮面が、
彼自身の心を蝕んでいるような
痛みが伝わってきた。
まるで、彼自身が、
「義経」という存在に
飲み込まれかけているかのようだった。
「では、どうするのです」
私の声は、震えていた。
私たちの「偽りの契り」は、
ここに来て、大きな岐路に立たされた。
八咫丸は、再び私に顔を向けた。
その瞳には、かつて私を
導いた時のような、
強い光が宿っていた。
「お前が、『義経』の道を継ぐのだ」
彼の言葉に、私は息をのんだ。
それは、私が最も恐れていたこと。
女である私が、再び「義経」として
表舞台に立つこと。
「ですが、私は……女です。
戦場には……」
私の言葉を遮るように、八咫丸は言った。
「お前には、策がある。
そして、今や『静御前』という
新たな顔も手に入れた。
『義経』は、必ずしも剣を振るう
武将である必要はない。
『義経』とは、源氏を導く『意思』だ」
彼の言葉は、私の心の奥底に響いた。
弁慶に語った、私の「意思」。
それを、八咫丸もまた、
理解し、信じてくれていたのだ。
「私には、お前を信じることしかできぬ。
だが、その選択が、
お前に重い宿命を背負わせるだろう」
八咫丸の言葉は、
私の心を強く揺さぶった。
私は、男として生きることを強いられ、
そして今、八咫丸のために、
再び「義経」という名と、
「静御前」という仮面を
背負うことを迫られている。
しかし、彼の面越しの瞳の奥に、
私への深い信頼と、
そして、私を想う愛が
宿っているのが見えた気がした。
夜明けが近づき、
空には微かな光が差し込み始めていた。
「私は、お前の影として、
最後の役目を果たそう」
八咫丸はそう告げると、
私の手に、何かを握らせた。
それは、彼が普段身につけていた、
小さな天狗の護符だった。
ひんやりとした護符から、
彼の体温が伝わってくるようだった。
「これで、お前は守られる」
彼の言葉が、私の心に温かく響いた。
彼は、もう一度、私を
深く見つめた後、
音もなく闇の中へと消えていった。
私はその場に立ち尽くし、
彼が消えた場所をじっと見つめていた。
手に残る護符の感触。
それは、彼との「偽りの契り」が、
今や、私たちの命を繋ぐ、
真の絆となった証だった。
二人の「義経」の運命は、
ここに来て大きく交錯し、
私自身が、次なる「義経」として、
新たな戦いの舞台に立たされることを、
私は静かに受け入れた。
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