第6話「武蔵坊弁慶の忠誠」

一ノ谷の戦いでの大勝は、

京の都を熱狂させた。

「源義経」の名は、

まさしく天下に轟き、

民衆は英雄の出現に沸き立った。

八咫丸からの文には、

凱旋した「義経」が

どれほど熱狂的に迎えられたかが記されていた。

喝采を浴びる八咫丸の姿を想像し、

私は誇らしい気持ちになる。

同時に、その喝采が、

本当は彼に向けられたものではないという、

複雑な感情も抱いた。


そんなある夜のことだった。

庵に八咫丸が姿を現した際、

彼は普段とは異なる様子で、

どこか落ち着かない様子だった。

「何か、あったのですか?」

私の問いに、八咫丸は珍しく

沈黙した後、口を開いた。

「……五条大橋で、一人の僧と剣を交えた」

五条大橋。

歴史に名を残す、あの弁慶との出会い。

私が知る歴史とは違う形で、

今、それが起こっているのだと悟った。


八咫丸は、その僧が

「武蔵坊弁慶」と名乗り、

千本の太刀を奪うという

荒行を積んでいたことを語った。

そして、私ではない「義経」に挑み、

壮絶な戦いの末、打ち破られたのだと。

弁慶は、並々ならぬ気概と武を持っており、

八咫丸は彼を配下に加えることを決めたという。


「彼ならば、いずれ源氏の大きな力となろう」

八咫丸はそう評価したが、

その顔には、どこか憂いがあった。

「だが、彼は聡い。

私の中に、お前を感じているのかもしれぬ」

その言葉に、私の胸がざわついた。

弁慶は、歴史上、義経に最も忠実な家臣。

その彼に、私たちの秘密が

悟られそうになっている。

それは、危険な兆候だった。


「どうしますか、牛若。

彼に真実を明かすか、

あるいは、別の手を打つか」

八咫丸の瞳が、私に選択を促す。

秘密を共有する者は、少なければ少ないほどいい。

それは、私たちが決めた大原則だった。

しかし、弁慶の忠誠心は疑いようがない。

そして、彼ほどの武人が味方となれば、

今後の戦において、

これほど心強いことはないだろう。

私は、熟考した末、決断した。


「弁慶殿に、一部の真実を明かしましょう。

ただし、私が女であること、

そして、八咫丸様の本来の姿は、

決して明かしてはなりません」

私の言葉に、八咫丸は

わずかに面の下で息をのんだ。

「……信じるのか」

「信じます。彼ならば、

必ずこの秘密を守り、

私たちに尽くしてくれると」

私の言葉に、八咫丸は

静かに頷いた。

それは、私の判断を信じてくれる、

彼なりの信頼の証だった。


数日後、八咫丸は弁慶を伴って、

再び庵に現れた。

弁慶は、巨躯の僧兵で、

その威圧感は並々ならぬものがあった。

しかし、その眼差しは、

主君への揺るぎない忠誠を宿していた。

八咫丸は、弁慶を伴って

庵に入ると、私を指差して言った。

「弁慶。ここにいるのが、

お前が仕えるべき真の義経だ」

弁慶は、大きく目を見開いた。

そして、私と八咫丸を交互に見つめる。

彼の顔に、困惑の色が浮かんだ。

無理もない。

一人の「義経」が二人に増えたのだから。


八咫丸は、弁慶に、

私と彼が「義経」という存在を

二人で演じていること、

私が裏で戦略を練り、

彼が表で剣を振るっていることを説明した。

彼は、私が女であるという核心には触れず、

あくまで「義経の奇策と武勇の源が二人いる」

という形に留めた。

弁慶は、八咫丸の言葉を

信じられないという顔で聞いていた。

しかし、八咫丸の真剣な眼差しと、

私のただならぬ雰囲気に、

次第にその顔から困惑が消えていった。


「なるほど……だからこそ、

殿の策は常人の域を超え、

殿の武は鬼神のごとく変化する、と……」

弁慶は、納得したように頷いた。

彼の瞳には、私たちへの

疑念ではなく、

新たな理解と、深い畏敬の念が宿っていた。

「私の目には見えたのです。

あのお方の眼差しに、

悲しみと決意、そして孤独が……。

それが、私を惹きつけました」

彼は、その場に深く頭を下げた。

「この弁慶、いかような秘密であろうと、

殿と、そしてお方様の命を賭けて、

守り抜くと誓います!」

「お方様」……誰にも呼ばれたことのない

その響きが、心のどこかを甘く撫でていた。

それは、私が女であることを、

弁慶がそれとなく

察しているからこその呼び方だった。

彼は、私たちの核心には踏み込まず、

しかし、その存在を理解し、

受け入れてくれたのだ。


弁慶の忠誠は、確固たるものだった。

彼は、私と八咫丸の秘密を守り、

私たちの連携を

より円滑に進めるための

重要な役割を担うようになった。

八咫丸が京で「義経」として行動する間、

弁慶は私の使者として、

京と鞍馬を往復するようになる。

彼を通じて、より詳細な情報が

私のもとへ届き、

私の策は、さらに磨かれていった。


八咫丸は、弁慶の存在を得て、

「義経」としての行動が

より自由になったようだった。

彼が心置きなく戦場に立てるのも、

裏で弁慶が、私たちの秘密を守り、

私と彼を繋ぐ役割を

果たしてくれているからだった。

弁慶は、私たちの「偽りの契り」を、

理解し、そして守ってくれる、

数少ない、真の同志となった。


夜、弁慶が去った後、

八咫丸が私に言った。

「お前の判断は、正しかった。

弁慶は、我らにとって、

得難い力となるだろう」

彼の言葉に、私は安堵した。

そして、ふと、

彼の面越しの瞳の奥に、

安堵とともに、

微かな疲労の色が

滲んでいるように見えた。


「八咫丸様も、無理をなさらないでください」

私が思わず口にすると、

八咫丸は、わずかに面の下で

微笑んだかのように感じた。

「私は天狗だ。疲労など……」

彼はそう言ったが、

その声には、僅かながら

人間らしい温かみがあった。

弁慶に背を預けると、仮面の下で、

ほんの一瞬……

私は自分を見失いそうになる。

名を借りたはずの私が、

いつのまにか名を超えようとしている――

それが、恐ろしいほど愛おしい。

私たちの「偽りの契り」は、

今や弁慶という新たな同志を得て、

さらに強固なものとなった。

そして、二人の間で育む感情は、

確実に、より深い絆へと変わりつつあった。


私は「名」を譲ったのではない。

義経という「意思」を託したのだ。

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