第3話 記録なき者たち

――この世界には、“観測されていない”時空が存在する。


 そこでは、記録も法則も曖昧になり、言葉は意味を失い、光は闇に呑まれてゆく。


 そして人々は、それをただ“異変”と呼ぶ。


 今日もまた、ひとつの都市で、その歪みが口を開いた。


 


 天文都市セレノス――時空観測網第7層に属する中規模の定点都市。


 市民たちは穏やかに暮らしていた。表向きは。

 だが、一般人の誰もが気づかぬうちに、都市の境界は軋みをあげていた。


 時間の流れが微かにズレる。

 何気ない通勤途中で、ふと見かけた時計が、誰の腕時計とも違う時間を指している。

 そんな“ささいな違和感”が、ここ数日、少しずつ都市を蝕んでいた。


 けれど――誰もそれを“異常”だとは思わなかった。


「そういうこともあるよな」「たまたまだろ」「眠気のせいかな」


 市民たちは、目の前の現実を都合よく解釈していた。

 なぜなら、それがこの都市の“観測されている現実”だったから。


 観測されていない事象は、都市の記録に残らない。

 記録に残らなければ、それは存在しないのと同じ。


 だから、市民たちは笑顔で日常を続ける。

 彼らにとって、崩れた時間や空間の歪みは、ただの「気のせい」にすぎなかった。


 だが、その裏で“何か”が静かに膨れあがっていた。

 観測不能領域――“時間喰らい”が棲むとされる、歪んだ時空の渦が。


 


「レオン。新たな観測異常が発生した」


 観測局・記録管理部第3班。


 記録管理官レオンは、卓上のデータターミナルに表示されたコードを眺めていた。


 “観測不一致エリア:セレノス第11区・時空同期率0.72以下”


「またセレノスか……。連日の異常検出だな」


「過去最小値だ。もはや通常観測では維持できん。対応は“現地再記録”だ」


「了解。すぐに向かう」


 そう答えると、レオンは長身の身体を椅子から引き上げ、コートを羽織った。

 都市間移動ゲートの認証カードを手に、観測局の通路を静かに歩く。


 


 観測者――それは、この世界に“存在を確定させる者”である。


 時空は不安定だ。ときに、自己矛盾を起こし、存在が“曖昧”になる。

 その時、誰かが“観測”しなければ、そこにあったものは消滅してしまう。


 記録管理官は、観測者の一種だ。

 だが、より精密な記録処理を担う彼らは、特殊な訓練を受け、異常空間への侵入許可も持つ。


 一般市民にはその存在すら知られていない。

 都市の秩序を守るという名目で、観測局はその全容を秘匿しているからだ。


 だが、ネットの片隅ではこう囁かれていた。


「時々、時計が全部止まるのは“時間喰らい”が出た証拠らしい」


「観測者ってやつが、消えた時間を“戻してる”って噂、知ってる?」


「まるで都市伝説だな」


 ――だが、その“都市伝説”は、今まさに、現実となってセレノスに牙を剥こうとしていた。


 


 セレノス第11区。

 老朽化した商業区の一角に、都市の表層に合わない“歪み”が出現していた。


 レオンはそこへ到着すると、地表にひび割れるように走るノイズの痕跡を確認した。


「ここか……」


 足元の空間が、わずかに“揺れて”いる。

 重力の方向すら微妙に異なる空間歪曲――時空災害の初期兆候だ。


 レオンは記録装置を展開し、記録線の再構築を試みる。

 だが――


 ――ビキィッ……!


「っ……!」


 空間が裂けた。


 突如、周囲に黒い粒子が渦巻き、地面の“過去の状態”が露出する。

 一瞬、時間が巻き戻ったかのような現象――これは、“時間喰らい”の兆候だ。


 そして、その渦の中から――ひとりの“少女”が、現れた。


空間の裂け目から現れた少女は、白銀の髪を揺らし、レオンをじっと見つめていた。

 その姿は、周囲の“歪んだ時間”の中でもまったくぶれない。まるで、最初からそこに“存在していた”かのように。


 レオンは咄嗟に身構えた。だが、少女は武器も気配も持たず、ただ立ち尽くしていた。


「君……、誰だ?」


 沈黙。だが、やがて少女は静かに口を開いた。


「ノワ。……私には、記録が聞こえる。でも、誰も信じてくれなかった」


 その言葉に、レオンの眉がわずかに動いた。

 “記録が聞こえる”――あまりに奇妙で、だが、どこかで耳にしたことのあるような。


 少女の瞳は透明だった。虹彩にほのかに揺れる青い光。

 そしてその奥に、“記録”のざわめきが確かに感じられる。


「観測局の者か?」


「……違う。いまは、ただの観測者見習い。……元は、補助ユニットだった」


「……補助……」


 レオンはそれ以上を問えなかった。

 記録のない存在。だが、なぜか胸の奥がざわつく。

 何か、大事なことを忘れている気がした。


 


 突如、都市全体に異常振動が走った。


 空間の端が裂け、“何か”がうねるように這い出てくる。

 黒い霧と共に現れたその影は、形を持たない“喰らうもの”。


「……出たか」


 レオンは即座に防壁を展開。

 だが、その“存在”は記録されず、記録装置が干渉できない。

 時間を喰らう存在――人々が“都市伝説”として語っていたものの正体。


 時間喰らい。


 記録されない時間の集積体。

 過去や未来に存在した“誰かの時間”を吸収し、自己を増殖させる異常存在。


「……このままでは都市が、食われる」


 レオンは咄嗟にノワを見る。


「君、退避しろ。ここは危険だ」


 だが、ノワは一歩も引かなかった。


「私……聞こえる。あれの記録の“裂け目”が……そこ」


 彼女の視線が、歪んだ空間の中心を射抜いた。


 レオンが記録装置を再構成しようとした、その瞬間――

 ノワがそっと彼の端末に触れた。


「リンク……許可。記録、重ねます」


 次の瞬間、レオンの記録装置が起動した。

 今まで拒絶されていたはずの“空白領域”が、ノワの補助で同期を始めたのだ。


「なに……?」


「私は、記録を“聴く”だけじゃない。書き換えずに、“接続”することができる」


 空間の中に新たな“記録線”が走る。

 レオンとノワが共に記録した“現在”が、過去と未来の歪みを包みこみ始めた。


 そして――時間喰らいが咆哮した。


 


 記録装置の演算が限界に近づく。

 レオンは歯を食いしばりながら、残された最後の指令を打ち込んだ。


「ここまで来たら――やるしかない!」


 記録線の終点を、都市の座標核に接続。

 ノワがその補助をとり、空間の安定化処理を実行。


 数秒後――都市を包んでいた“歪み”が、一気に消失した。


 空は澄み渡り、崩れた建物が元通りに戻る。

 人々は何事もなかったように動き始めた。


 だが、それは“観測された現在”に過ぎない。

 裏で記録を取り戻した二人のことを、誰も知ることはなかった。


「……ふう。間に合ったか」


 レオンが膝に手をつき、息をつく。

 その横で、ノワが静かに微笑んだ。


「やっぱり……君は、私を見つけてくれるって、思ってた」


「……?」


「なんでもない。ただの、記録の話」


 


 異常事象は一応の収束を見せた。

 だが、観測局は事態の全貌を把握しきれていない。

 レオンは、ノワがただの“偶然現れた少女”ではないことを感じていた。


 記録の奥に、何かがある。

 そして、その“何か”は自分と関係していると――。


「君は、これからどうする?」


「……決めてない。でも、どこかでまた“誰か”の記録に出会える気がするから」


「そうか。じゃあ……一緒に来るか?」


 ノワの瞳が、微かに揺れた。


「いいの?」


「ああ。……君の力があれば、俺にも届かない“記録”に触れられる気がする」


「……うん」


 こうして、記録管理官レオンと、“白き記録の子”ノワの旅が始まった。


 その旅路の先に、幾多の世界と、記録されざる“真実”が待ち受けているとも知らずに。


 


(つづく)

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