第10話 もう二度と


 忘却の森の前に着き、アークスは飛行魔法を解除して地面に降り立つ。そして、迷いなく森へと足を踏み入れた。進めば進むほど、彼の魔法に反発するように大きな力が返ってくる。それでも探知魔法を発動させ続けていると、不思議な空白のような領域が広がっていた。


 森の奥深く。陽光が木々の間から差し込む、小さな泉のほとり。

 森の動物たちに囲まれて優しく微笑みながら、どこか遠い目をして水を汲んでいる娘。


「フィオラ……!」


 アークスの声が、静かな森に響いた。彼女の体が硬直し、ゆっくりと振り返る。彼女の琥珀色の瞳がアークスを捉えた瞬間、その瞳に宿っていた穏やかな光が、一瞬にして驚きに変わった。


「アークスさま……なぜ……」


 フィオラは、まるで怯える小動物のように後ずさった。アークスは、その反応すらも愛おしく見え、思わず笑みを浮かべる。


「フィオラ、君を探しに来たんだ。もう、君を一人にはしない。君が傷つくことがないように、僕がずっと守る。だから、一緒に帰ろう」


 彼は、諭すように優しい声で言った。しかし、フィオラは首を大きく横に振る。


「嫌です……!」


 フィオラは叫びにも似た声で告げる。彼女の顔は、怯えよりも深い悲しみに歪んでいた。


「もう、アークスさまとは一緒にいられません! あの場所は、わたしにとって自由ではありませんでした。わたしは、あなたのお傍にはいられません……!」


 その言葉は、アークスの心を抉る。目に見える彼女の拒絶は、彼にとって大きな衝撃だった。


 ——しかし、衝撃を受けただけで想いは変わらない。


 久しぶりに見たフィオラは瘦せていた。探知魔法では、所々に魔物の反応が見つかる。こんな危険な場所で彼女が無事にいられたのは、奇跡に近しい。


 彼女がどこにいようと、安全ではない。彼女が目に見えない場所で傷つくくらいなら、例え彼女が望まなくても、自分がそばに置いて守るしかない。


「ごめん……フィオラ」


 アークスの声は、掠れていた。彼はフィオラに手を伸ばす。彼女は全力で逃げようとしたが、仮にも最強の魔法使いであるアークスから逃れられるはずもない。


 アークスの魔法が、フィオラの体を優しく包み込む。そして彼女を確実に拘束した。


「もう、君を一人にはしない。二度と、君を失いはしない」


 アークスは抵抗するフィオラを抱きかかえて飛び立った。彼には忘却の森の結界など、障害にもならない。じたばたと暴れるフィオラの耳元に唇を寄せて囁く。


「あんまり暴れると、落としちゃうかもよ」


 彼が愛するフィオラを落とすなどありえないことだが、この脅しは効いたようだ。フィオラは抵抗をやめて、大人しく彼の体に体重を寄せる。


 アークスはそれに満足して、出せる限りの速さで彼の家に向かった。




 アークスが新たに作った隠れ家は、以前の聖域よりも厳重だ。外界との繋がりは完全に断たれ、欠陥のない完璧な結界が張られている。アークスはフィオラが決して逃げ出せないよう、あらゆる手を尽くした。


 彼は、フィオラへの愛を惜しみなく注ぎ続けた。毎日彼女のために最高の食事を用意し、美しく咲き誇る幻の花々を創り出す。彼女が退屈しないよう珍しい物語を語り、世界の美しい景色を魔法で見せた。


 そして何よりも、彼は言葉と行動で、繰り返し彼女への「愛」を伝え続けた。


「フィオラ、君は僕の全てだ。君さえいれば、他の何もいらない」


 アークスの瞳には、純粋な愛と深い狂気が宿っている。彼はフィオラが傍にいることでようやく心が穏やかになり、自然な笑みを浮かべることができるようになっていた。


 最初はフィオラも拒絶し、逃れようとしていた。しかしこの愛の監獄からは、決して逃れることはできない。


 アークスの止まらない愛の言葉と一切の隙を与えない監視が、彼女の精神を徐々にすり減らしていく。


 やがて、フィオラの瞳から光が失われていった。


 抵抗する気力も、怒りも、悲しみも、全てが壊れていく。彼女はアークスの言うことに従い、彼の望むままに微笑んだ。まるで、人形のように。


「アークスさま……」


 彼女の声は、抑揚がなく虚ろだ。アークスが彼女に手を伸ばして引き寄せると、フィオラはその手に甘えるように頬をすり寄せる。唇を寄せると、フィオラは彼に身を任せる。


 アークスは彼女の変化に純粋な喜びを感じた。彼女が自分から逃げようとせず、自分の言葉に忠実に従う。その姿を見て、彼はようやく安心した。


 フィオラは完全の僕のものになった。


 これで、君は二度と傷つかない。二度と僕から離れない。

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