貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を迎えにきただけだった。

桜塚あお華

プロローグ 君を迎えに来た


 扉が、カチリと小さな音を立てて軋む。

 その微かな振動が、まるで波紋のように部屋の空気を揺らした。


 カローラは、椅子に座ったまま、身じろぎひとつできなかった。

 喉が焼けつくように渇いて、うまく息すらできていない。


 ――来た。


 心のどこかで、そう確信していた。


 扉の向こうに立っていたのは、かつて『魔力ゼロ』と蔑まれ、誰にも顧みられず、己の誇りすら踏みにじられた少年。

 その少年は、青年となり、今――漆黒のローブに身を包み、

 銀の仮面を顔に添えたまま、ゆっくりと足を踏み入れてきた。


 仮面の奥から放たれる気配が、鋭く、重い。

 ただそこに立っているだけで、空間の密度が変わったかのようだった。


「……ノワール?」


 震える声が、自然と口をついて出た。

 問いかけのつもりだったのに、その名は、懺悔のように響いていた。

 彼は答えない。

 ただ、仮面にかけた手をそっと動かし、静かにそれを外す。


 露わになった顔――幼い頃の面影をわずかに残しながらも、まるで別人のように鋭く、整ったその顔立ちに、息を呑む。


「……カローラ」


 名を呼ばれた瞬間、胸の奥がずきりと軋んだ。

 その声には、感情らしい起伏はなかった。

 それでも、深く深く、染み入ってくる。


 ――十年。


 それは、時間の長さではない。

 彼がこの言葉を、何千回、何万回と胸の中で呼び続けてきたのだと――たった一言で、それが伝わってしまった。


「……あなた、なのね。ノワール」


 喉の奥が詰まりそうになりながらも、言った。


 彼は、ほんのわずかに頷いた。

 そして、低く、確かな声で言った。


「――君を迎えに来た」


 その声には、怒りも恨みもない。

 優しさですらなかった。


 ただそこにあるのは、十年の時を超えてなお、揺らぐことのない『意志』――それが、息をしていた。


 怖いほどに静かで、真っ直ぐだった。


 ああ、これは『終わり』なんかじゃない。

 すべての、『始まり』なんだ。


 十年前、幼い日の森で交わしたたった一つの約束が、今も彼の中で生き続けている――それが、すべてを物語っていた。

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