【第1章 空白の報告書】3話
都市第三区のN32-βブロック——。
整然と並ぶ集合住宅群の中でも、この一帯はとくに無機質だった。灰色のコンクリートの壁はどれも画一的で、見分けがつかないほどだ。
白石瞳は、傘を差しながら歩みを進めた。夜の湿り気を含んだ空気が肌を撫で、かすかに土と鉄の匂いが混じっていた。
現場は、匿名通報が記録された座標に近い建物の裏手にある掲示板だ。そこに——記録に残されなかった“絵”があった。
「……これ、ですね」
掲示板の端。雨に打たれ、端がめくれかけた一枚の紙があった。
だがすでに“原本”は剥がされており、残っているのはその跡と、電子記録網にかすかに残された静止画だけ。
「保存期限、たった48時間……」と白石はつぶやいた。
通報記録の不備を理由に、記録局から正式な現場保存指令が下されなかったため、これは“雑記扱い”として処理されてしまったのだ。
黒川章が、ポケットから簡易スキャン端末を取り出した。
「記録が“残らなかった”のは、誰かの意図か、それとも偶然か……」
彼は壁をなぞり、残留視認素子の反応を確かめる。
——反応、あり。
「やはり、あの絵は実在した」
白石が思わず身を乗り出す。
雨の影響で感知精度は下がっているが、微かに“鉛筆の粒子”が壁面に残っていた。
「主任、これ……もう『記録不備』ってレベルじゃないですよ」
その言葉に、黒川がちらと視線を向ける。
「わかっている。だがこれは、我々が公式に動ける案件じゃない」
「じゃあ、見なかったことにしろと?」
「違う。——俺たちは“見てしまった”。だから、記録しなければならない」
言いながら、黒川は背後に視線をやる。住宅棟の3階あたり、ひとつだけ灯りの消えた窓。
「あの部屋……通報の発信元に近い。上がってみよう」
二人はインターホンも鳴らさず、エレベーターで3階へ上がった。
廊下の照明が点滅している。空き家に近い部屋も多く、足音が不気味に反響する。
目当ての部屋——302号室の前に立ったとき、白石の手が自然に止まった。
「開いてます……」
ドアが、わずかに。施錠はされていない。
黒川が即座に制止する。
「入るな。上位許可は取っていない」
だが、白石の目が奥を捉えていた。玄関から見える廊下の先、床に落ちた何か。
——手描きのスケッチブック。
濡れた床に伏せたそのページには、先ほどの絵と酷似した構図。
大きな人物、小さな人物、そして“壁のような存在”。
「主任、これ……この部屋の人が描いたものなら、目撃者がいるってことになります」
「……だとすれば、“なぜ記録されなかったのか”が問題だ」
黒川は懐から小型の記録照合デバイスを取り出す。部屋の主の登録名義を照会しようとした、そのとき——
扉の内側から、かすかな足音が聞こえた。
白石と黒川が身構える。
その直後——
「誰……?」
少女のような、かすれた声が扉越しに響いた。
記録されなかった通報。
存在しない“目撃”。
消された“記録”。
そのすべての中心に、ひとりの子供が立っていた。
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