おぶわれて夏
忽然と姿を消した醜女は、破裂音と共に厚化粧を曝け出した。掌に隠れていた間も柔軟剤と香水の淆じった鼻を劈く劣悪な臭気を放っていたが、並びの悪い黄ばんだ歯を通過した口臭まで重ねられれば、いよいよ耐え難い。化物に襲われるような恐怖心と錯覚して、硬直したまま目を見開いた。
狭い昇降機の中、乳の出る女は吾輩の身を異臭から引き剥がそうと体勢を変える。巨人には性別以外にも様々な種類があるようで、同じ女人といえども、乳と獣はまったく別種の生き物に見受けられた。容貌やニオイも然ることながら、声色も明らかに異なる。嗄れた原因が推し量れそうな卑俗な大声に、垂乳女は孅く苦笑して半歩退いたと窺えた。温もる背中と密着させる袋から飛び出す吾輩の溌剌たる足を、皺多き手が撫でることは誠に憤ろしい。垂乳女も同様に厭うようで、幼児語で齢を訊ねる声には、一歳を迎えるところだとさっさと横槍を入れた。それ以上は構うなという声明が淡々とした物言いに表れているが、もちろん化物は怖けずに調子を崩さない。
チャイムが鳴って扉が開いた瞬間、慌ただしく昇降機を後にした。頬がたぷんと揺れると涎が漏れ出るため、奥の歯茎で舌を押さえておく。首筋から伝わる怒りの熱に感染して焦燥を覚えた。彼女の顔を数十分見ていないことも不安を尤もらしくする。それらを総合し、啼泣の所以として牽強してよかろうと結論付けた。
泣いた吾輩に対して、感情の判らないやや高い声を上げた後、少し歩いてから背中より降ろし、向かい合って抱かれた。撫でられ笑顔を向けられるも、疲れ切っていると見えて微妙に寂しい。ベンチに腰掛けたようで、隣には荷物が置かれていた。百貨店は外よりずっと涼しいが、泣いてみせると顔が熱くなる。汗ばむ吾輩をガーゼ生地のタオルで拭いて、茶を取り出した。
黄色い持ち手のストローマグ。吸引によって飲み込むことに未だ苦手意識がある。拭かれ、撫でられ、吸い込み、飲む。泣いていた原因が明瞭でなくなって、一時はストローマグと真剣に格闘したが、やはり気が落ち着かず慟哭を再開した。垂乳女は深く息を吐いてから荷物を纏め、授乳室へと吾輩を連れて行く。光や音が唐突に抑制され、畏まった気分にさせられた。
近頃、なまじ固形物を食すようになったばかりに、母乳の味わいを物足りないと思うに至った。香りにはどちらもに違ったよさがあるものの、噛みごたえの観点では圧倒的に穀物や卵に軍配が上がる。けれども、体の内と外すべてで母性の体温を受け取る時間は不可欠に感じてならない。彼女の服で隠される極めて個人的な空間は愛されている証明である。短い饂飩に現を抜かしている場合ではないのだが、何故か湧き出てしまう食への愛着や好奇心は、無遠慮にその繋がりを断ち切ろうとした。その獰猛な本能が恐ろしい。生まれて一年も経とうとする男児なのだから、どうにか理性で以って律したいところである。
厳かな授乳室で乳頭を舐め、噛み締めていると、やはり重要性を思い知る。母子の紐帯は肝要だ。吾輩が乳を吸い出すことにこそ、その役割がある。獣のような醜女から吾輩を守ることも、愛おしき吾輩に笑い掛けることも、絆によって執り行われている。慎重に、大切に、愛の証を喫し続けた。
そのとき、音が鳴り響く。垂乳女が見ていた液晶からである。家でもよく使っているから判る。慌てて音量を落としたところで、吾輩は甚だ立腹した。ここまで丁寧にお前の乳と対峙しているというのに、吾輩を愛でていないとは何事であるか。気が悪くなり、前歯で乳頭を徒に噛んでは啜るのをお終いにした。
こちらの不満など微塵も知らず、彼女は相変わらず微笑んでいた。その笑顔と向き合い、頬を指で優しく刺されると、反射的に吾輩まで笑ってしまう。大変不本意である。再びおぶわれると、彼女の首に頬を付けて熱を均すようにした。
数分後、初めての靴を履かされ、溌剌たる足に未来と離別とを予感した。
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