第27話:初めてのアルバイト


 私は、星影学園・1年A組の白石芽依。

 六月の夕方、駅前の喫茶店の木のドアを押した。

 ほんのり漂うコーヒーの香りと、かすかなジャズ。数週間前、サイダーをかけられて透けたブラウスの記憶がふとよぎる。まさかその店で、今日からアルバイトをすることになるなんて――。


「今日からだよね? 白石さん」

 カウンターから声をかけてきたのは、ゆるく巻いた髪の大学生くらいの女性。

「わたしは遠藤です、よろしくね。女性私だけだったから嬉しいなぁ、ねぇ芽依ちゃんって呼んでいい?」

「はい、大丈夫です、よろしくお願いします」

「じゃあさ、奥にマスターいるから挨拶しておいでよ」


 奥には、白髪交じりの初老のマスターが立っていた。エプロンの端を拭きながら、静かに笑う。

「こんにちは。今日からお世話になります、白石です」

「ようこそ、緊張しなくていいからね。じゃあ早速、制服に着替えておいで。そこにスカートとブラウスとエプロン置いてあるだろ? 向こうの休憩室の奥で着替えられるから」


 * * *


 休憩室に入ると、畳敷きの四畳ほどの小さな空間にテーブルとロッカーがある。

(ここでいいのかな?)

 制服をテーブルに置いて、上着のボタンを外す。白いブラウスの生地は薄く、手触りがさらさらしている。袖を通すと、なんだか少しだけ社会人になった気がした。

 続けて、履いてきたジーンズを脱いで、スカートに足を通そうとしたその瞬間――。


 ガチャ。


 音と同時にドアが開き、マスターが顔を出した。


「きゃっ!」

 私は反射的にスカートを引き上げたけど、白い下着は確実に見られた。

「あ、あぁ、すまん!」

 マスターは慌てて後ろを向いた。

「ここじゃなくてだな、その奥に小さい更衣室があるんだ。鍵もあるから、次からはそっちを使って」

「は、はい……! すみません」

 心臓がばくばく鳴る。よりによって初日からこれって。わたし大丈夫かな?


 * * *


 裏方で、私は洗い物の山に向かっていた。

 熱いお湯の音とカチャカチャ鳴る食器。少しでも手を動かしていないと、さっきの出来事が頭から離れない。

「芽依ちゃん、調子はどう? なんかテンション低いね?」

 隣でグラスを拭いていた遠藤さんが、軽い調子で聞く。

「はい、あの……さっきマスターに、パンツ見られちゃって……」

「え、なにそれ!? 詳しく教えてよ!」

「えぇー、恥ずかしいですよー」


 * * *


 遠藤さんに話したら、少しだけ肩の力が抜けた。

「まぁマスター、そういうのたまにあるけどさ、悪気ゼロだから気にしないでね」

「……でも、あとで絶対奢ってくれるから。詫びドリンク!」

 二人でくすくす笑っているうちに、洗い物は残り少なくなっていた。


 * * *


「白石さん、表にも出てみようか」

 マスターの声がして、私は手を止めた。

「そこの食器を片付けてもらえる?」

「はい!」

 トレーを両手で持ってテーブルへ。

「失礼します」と声をかけ、グラスを下げる。コップの中の氷がカランと鳴った。心臓も同じリズムで鳴ってる気がした。

 戻ると遠藤さんが口を尖らせてマスターに話している。

「マスター聞きましたよぉ?」

「おいおい、あとでコーヒー奢るから、あんまり言いふらさないでよ?」

 マスターは照れくさそうに笑い、遠藤さんはニヤリと返す。


 ドアが開いてカランと音がなり、お客さんが入ってきた。

 私は背筋を伸ばして、息を吸い込む。

「――いらっしゃいませっ!」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。


 マスターが目を丸くして笑う。

「いいねぇ。白石さんがいると、店が明るくなるな」

「それって私じゃ元気出ないってことですかー?」と、すかさず遠藤さん。

「いやいや、そういうことじゃなくてだな」

「あー、けど分かります。芽依ちゃんの声、なんか元気出ますよね」

「え、ほんとですかぁ?」

 顔が少し熱くなる。だけど、さっきより自然に笑えた。


 * * *


 閉店後。

 客が帰り、店内がしんと静まったころ、マスターが声をかけた。

「白石さん、今日は初日で疲れたでしょ? これ僕のおごりだから飲んでって。遠藤さんも」

「ありがとうございます!」

「やったね、アイス乗っけてもいいですか?」と遠藤さん。

「今日だけ特別だぞ」


 三人でテーブルにつく。グラスの中で氷がゆらゆらと揺れて、夜の光を映していた。

「わー、ついてるね、芽依ちゃん」

「えー、わたしパンツ見られたからついてません!」

 言った瞬間、遠藤さんが吹き出した。マスターは頭をかきながら、困ったように笑う。

「本当にすまなかったね、僕の説明が悪くて」

「大丈夫です。きちんと確認しなかった私も悪かったですし」

 笑いながら、グラスの中のアイスコーヒーをひと口。ほんのり甘くて、少しだけほろ苦い。


 初日の夜は、恥ずかしさと珈琲の苦さの入り混じった味がした。

 でも、やっぱりこの店を選んでよかったと思えた。


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