第12話:放送

「綾香~、今日の現国、小テストって言ってたけど、なかったね~」


「うん、あの先生、いつも“やるやる詐欺”だから」


「今日は絶対やるって言ってたけどな~。さては忘れてるな」


 二限目が終わった教室。私と隣の席の結月は、のんびり雑談していた。


 机の上には教科書と、カバンから半分出した筆箱。男子たちは眠そうに背伸びをして、あくびをしている。


 そんなゆるい空気の中、不意に放送が流れた。


「二年C組、黒崎綾香さん。落とし物があります。職員室横の生徒指導室まで取りに来てください」


 一瞬、教室の空気が止まり、ざわっと動いた。


「綾香、呼ばれてんじゃん! 落とし物~?」


「え、マジ?」


 私は思わず自分の机やカバンを確認する。スマホもある。財布もある。筆箱も、ハンカチも、飲みかけのカフェオレも全部ある。


(何を落としたんだろう?)


 全く心当たりがない。


 私は肩をすくめ、小さく笑った。


「ま、あとで取りに行こっかな」


***


 昼休み。


「綾香、行った? 落とし物」


「あっ……忘れてた!」


 パンの袋を開けたばかりだったけど、私はそれを机の上に置いて立ち上がった。


「取りに行ってくる、パン置いといて!」


「おっけ~。甘いやつね、覚えとく」


 私は軽く走りながら、校舎の隣棟――職員室のある方へ向かった。


 その手前にあるのが、生徒指導室。入り口脇のテーブルには「落とし物」と書かれた茶色のボックスが並んでいる。


 傘、水筒、筆記用具、ポーチ、体操服の袋……。大まかな種類ごとにケースにまとめられ、無造作に置かれていた。


(これかな……?)


 一つひとつ目で追いながら、記憶をたどる。どれも違う気がする。


 ふと、隅に置かれた小さな箱が目に留まる。その中に、丸められた白い布のようなものが一つだけ、ぽつんとあった。


 私はざわつく気持ちのまま、それを手に取った。


 ふわりとした手触り。柔らかなコットン地。小さなレースの縁取り。少しくたびれた質感。


 そして、タグに縫われた刺繍文字が目に入った。


 「A.Kurosaki」


(……あ)


(……えっ? うそ……でしょ?)


 一瞬で、体中の血が凍りついた。


 息が止まる。心臓の音が耳を打つ。


 手の中の白い布。


(ちょ、ちょっと待って。なんでこれが……ここに……!?)


 ぐらりと足元が揺れた気がした。

 頭の中で何かが爆発したように、思考が真っ白になる。


(嘘……うそ、うそ、うそ……!)

(私の……パンツだ)


 ヨレた白の、地味なパンツ。"あの日"に備えて、カバンの奥に入れておいた使い古しの“二軍”のやつ。可愛くも新品でもない、履き心地だけが取り柄の下着。


 胸が締めつけられる。喉の奥が熱くなる。

 羞恥が波のように押し寄せ、体がどうにかなりそうだった。


(なんで……ここにあるの……?)


 今日は上履きを持ってきたから、靴箱の前でカバンを開けた。


(そのとき……落とした?)


 でも私は気づかなかった。


(じゃあ……誰かが拾って、届けてくれたんだ)


 その人はこの白いパンツを拾い上げ、タグを見て、私のだとわかって、先生に届けた――


(え……誰かが、見たの?)


(私のパンツを……!)


 胸の奥がざわざわと泡立つ。呼吸が浅くなり、体温が不自然に上がる。


(……なんで、直接渡してくれなかったんだろ)


 そんな考えがよぎる。


 拾って、こっそり机に戻すとか、体操服の袋に入れてくれるとか、他にもやり方はあったはず。


(でも……もしそれが男子だったら……)


 想像したくないのに、想像してしまう。


「黒崎さん、これ……たぶん君のだよね?」


――って、手渡されたら。


 それもこのヨレヨレ二軍パンツを、顔を見ながら渡されるなんて。


(無理……絶対ムリ……死ぬ)


 でも、見られたことに変わりはない。

 拾った人に。届けた人に。先生に。


(……誰が拾ったの……?)


(男子? 女子? 上級生? 下級生?)


 わからないことが、余計に怖い。


 しかも気づいてしまった。


(……このパンツ、誰でも見える場所にあった)


 テーブルの上の茶色い箱。ラベルも袋もなく、ただ丸められて置かれていた。


(午前中に取りに来ていれば……)


(昼休みまで、ずっと晒されてた……?)


 ぞっとした。


 誰かが別の忘れ物を探すついでに、私のパンツを見たかもしれない。レースや刺繍文字まで、じっくり見られたかもしれない。


 でも、それが誰かは分からない。


(知らない誰かに、見られてたの……?)


 指先がじんわりと冷えていく。背中に変な汗が伝う。


 そのとき。


「黒崎さん?」


 生徒指導室のドアが開いて、女性の先生が顔を出した。


「それ、あなたので間違いない?」


「……はい」


「じゃあ、これにサインしてね」


 差し出されたのは、落とし物返却記録のバインダー。A4用紙に整然と並ぶ記録表。


 日付、学年、名前、落とし物の内容――


 私の欄には、すでにこう書かれていた。


 「黒崎綾香/下着(白)」


(……書いてある……“下着”って……)


 ただの分類として、淡々と。そこに“恥ずかしい”なんて概念は存在しない。


 ペンを持つ手が震えた。


 私は今、自分のパンツを受け取るために、署名しようとしている。

 しかも、学校の公式書類に。


(……これが、学校生活かぁ)


 そう思いながら、ぎこちなく「黒崎綾香」と記した。


 その瞬間、先生の軽い笑い声が追い打ちをかけた。


「はい、ありがと。パンツ、無くならなくて良かったね~。気をつけてね~」


「……はい……」


 先生のあっけらかんとした一言が、羞恥の最後の追い打ちをかけた。


(誰が拾ったのか聞こうと思った……)


でも、次の瞬間、喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。


(……やっぱりいい。知りたくない)



 私は深くお辞儀して、足早にその場を後にした。


***


「綾香、早かったね。なに落としたの?」


 戻ると、さやかがパンをかじりながら言った。


「えー、なんか……予備のハンカチ。昇降口で落としたっぽい」


「へー、ちゃんと拾われててラッキーじゃん」


「……うん、ラッキー」


 パンの甘さは、いつもより遠く感じた。


 あの日、私の二軍パンツが生徒指導室に晒されていたこと。

 誰かの手に渡り、確かに“見られた”こと。


 それが、私の――


 学園生活最大の黒歴史になった。

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