第5話:水色の答え合わせ

 修学旅行二日目の夜。

 六月の終わり、京都の古い旅館の一室に、妙な緊張感が漂っていた。


 二年D組、薬師寺舞。今、その輪の中で、ひとりだけ本気で逃げ出したい気分だった。


「負けた人、パンツの色言うルールねー!」


 トランプを切りながら千佳が宣言したとき、私は本気で逃げ出したくなった。


 男女混ざった七人の輪の中、誰も止めようとしない。

「やば」「絶対ムリ」「恥ずかしすぎ」と言いながら、みんなニヤニヤ楽しそうにしている。


 私は、止めたかった。

 でも言えなかった。


 だって、輪の中に――悠斗くんがいるから。


 同じクラス、ずっと気になっている男子。

 クラスの中心ってほどじゃないけど、自然と周りに人が集まる。

 笑うと目尻が下がるのが、ずるいくらい可愛い。


 そんな悠斗くんの前で、パンツの色なんて、絶対に言えない。


 しかも今日、私は――水色の、レースが入ったパンツを履いている。

 京都の六月。蒸し暑い夜に備えて、涼しげな色を選んだ。

 それが、まさか自分を追い詰めることになるなんて思わなかった。


「じゃあ、配るよー!」


 千佳が楽しそうにカードを配り、ババ抜きが始まる。

 ゲームが進むにつれて、場の空気はどんどんヒートアップしていった。


 一巡目、負けたのは千佳だった。

 さすが盛り上げ役、恥ずかしい役を自分で引き受けるあたり抜け目がない。


「ピンクでーす。リボンは赤!」


 男子たちが「おい……」と苦笑し、女子たちが「キャー!」と騒ぐ。


「想像するからあんまりリアルに言うなって……」

 男子のひとりが顔を赤らめて、苦笑い混じりに言うと、場の空気がさらに盛り上がった。


「だって細かく言った方がリアルじゃん?」

 千佳が胸を張る。

「男子だって絶対、想像するでしょ〜?」


 男子たちが目を逸らしながら、否定も肯定もしない。

 私は、顔が熱くなるのをどうにもできなかった。

 自分の番が来たらどうしよう。

 悠斗くんの前で、パンツの色を言わされたら――


 その悪夢は、現実になった。

 最後まで残ったのは、私と悠斗くん。


「うわ、これ俺負けたらやだな〜」

 悠斗が苦笑する。

 私は、笑えなかった。心臓が壊れそうなくらい暴れている。


 私はカードを引く。

 ジョーカーが、手元に来た。


 終わった。


「ごめん、私負けた……」


 男子たちが「おおお」と騒ぎ、女子たちがニヤニヤと見つめてくる。

 悠斗くんの視線が、私に突き刺さる。

 顔が熱い。喉が乾く。足が震える。


「はい、色! 色ー!」

 千佳がせかす。


 言えない。絶対に言えない。

 水色の、レースの、今日のパンツの色なんて。


「……やだ、やっぱり……言えないよ……」


 声が震えていた。

 涙が、目の縁に滲むのがわかった。

 みんなの視線が突き刺さる。

 恥ずかしくて、苦しくて、逃げ出したい。


 そのとき、千佳がふっと表情を和らげて、私に目配せをした。


「じゃあ、キャミの色でいいよ」


 私は、千佳の優しさに救われた気がした。

 唇を噛んで、小さく頷く。


「ごめんね……キャミは黄色」


「おおお、なんかそれもリアル〜!」

 男子たちがまた騒ぐ。

 私は顔を真っ赤にしながら、必死に呼吸を整えた。


 罰ゲームはなんとかやり過ごせた。

 でも、心臓のバクバクは、収まらなかった。


 トランプの後、みんなが雑談に戻ったとき。

 私は、意を決して、悠斗くんに声をかけた。


「……悠斗くん」


 彼がこちらを見て、少しだけ驚いた顔をする。

 私は、もう逃げないと決めた。

 羞恥も、ドキドキも、全部抱えて、一歩踏み出す。


「明日……宇治でかき氷、一緒に食べに行こうよ。『水色』のかき氷食べたいな」


 一瞬、彼が驚いたように目を瞬かせた。

 でもすぐに、ふっと優しく笑う。


「いいよ。じゃ、約束な」


 その笑顔に、心臓が跳ねる。

 パンツの色は言わなかった。

 けれど、水色の言葉だけで、全部伝えた気がした。


 伝わったのは、私だけで、悠斗くんは気づいていない。

 それでも、十分だった。


 翌日、京都・宇治。


 私は悠斗くんと並んで、かき氷屋の前にいた。

 宇治川のほとりに、小さな甘味処が並んでいる。

 風に揺れる「宇治茶」ののれん。

 川の向こうに、緑の山並みがぼんやりと霞んで見えた。


「抹茶じゃなくてよかったの?」

 悠斗くんが、不思議そうに聞く。


 私はブルーのかき氷をスプーンで崩しながら、ふっと笑った。


「うん、水色のが食べたかったんだ」


 冷たい氷が唇を濡らす。

 悠斗くんは「変わってるな」と笑って、自分の抹茶かき氷をすくった。


 観光客のざわめき、川のせせらぎ、優しい風。

 遠くで、船がゆっくり橋の下をくぐっていく。

 私はその景色を眺めながら、氷の冷たさより、胸の奥の鼓動が気になって仕方なかった。


 この水色のかき氷は、ただのかき氷じゃない。

 私だけが知っている、昨日の答え合わせだ。


 その夜、旅館の窓から京都の夜景を見下ろしながら、私は思った。


 数年後に、彼がまだ私の隣にいたら。

 そのとき、教えてあげよう。


 今、私が履いているパンツが、水色だったことを。


 きっとその時には、恥ずかしさも、黒歴史じゃなくなっている。

 白歴史って、呼べるようになっている――そんな気がするから。


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