わたしのパンツの黒歴史

蒼井とまと

第1話:ごめん言えなかった

 モデルは、制服の裾を軽く整えて椅子に座った。

「じゃあ、30分ポーズお願いします。はい、楽にして――はい、そこ!」


 午後の美術室には、鉛筆のカリカリという音と、紙をめくる小さな音だけが静かに響いていた。

 星影学園・美術部。部員は十人ほど。静物画と人物画を交互に描きながら、毎週地道に活動している。


 この日のモデルは、二年生の高梨遥香。制服姿のまま、背筋を伸ばして椅子に座っていた。

 やや斜めに腰掛け、膝を揃え、顎を引く――指示された通りの姿勢を忠実に保っている。


 モデルは部内の有償バイトだ。黙って座っているだけでも、一定の報酬が支払われる。

 遥香は目立つ性格ではなかったが、姿勢の美しさや整った顔立ち、制服の清潔感から、最近はよく選ばれていた。


 彼女に対する評判は「きちんとしている子」。

 だがこの日だけは、ほんのわずかな“ほころび”が、彼女自身の羞恥心を貫いてしまうことになる。


***


 最初に気づいたのは、前列左寄りに座っていた男子部員・矢沢だった。


 遥香のブラウス。上から二番目のボタンが外れていた。


 立っていれば目立たない。

 しかし、背もたれに寄りかかって座るその角度と布の張り具合が、胸元にゆるやかな隙間をつくっていた。


 そして、そこに――ごく薄く、けれどはっきりと、“ピンク色のカーブ”が覗いていた。


(……うわ、まじか。見えてる、これ)


 矢沢は慌てて目を逸らした。いや、見ようとはしていない。

 ただ、視界の端に自然と入ってきてしまう。そしてその淡い色と質感が、妙に印象に残る。


(見えてるよな、あれ……。しかもピンク……?)


 手に持ったペンが、じっとりと汗ばんだ。注意した方がいいのか?

 けれど「ボタン開いてますよ」なんて言ったら、かえって全員の視線が彼女の胸元に集中してしまう。


 誰かが気まずくなり、誰かが笑い、誰かにとって忘れられない光景になる。

 つまり、それは遥香にとって“黒歴史”になるということだ。


(……わざと開けてる? 訳ないよな……)


 一瞬でもそんな考えがよぎった自分を、矢沢は殴りたくなった。遥香はそんな子ではない。

 でも――それにしても、見え方があまりに絶妙すぎる。角度もバランスも、自然にしては“完成”されすぎていた。


 ふと気づけば、前列左側の男子三人全員が、沈黙したまま視線を逸らしながら黙々と鉛筆を走らせていた。


***


「30分経過! はい、おつかれさま!」


 部長の声が緊張を解きほぐす。遥香は小さく息を吐き、軽く頭を下げた。

 それに対して、男子たちはどこかぎこちない笑顔を返していた。


(……終わった、終わった。ふぅ)


 遥香は姿勢を戻しながら、無意識に胸元へ手をやった。――気づいていない。

 見えていたことも、見られていたことも。


***


 数人の部員が後片付けを始める中、遥香はお茶を汲みに行き、戻ってくると男子たちに声をかけた。


「……あの、絵、見せてもらってもいいですか?」


 男子たちは少し目を泳がせながらも、スケッチブックを差し出した。


「どうぞ……」

「い、いいよ。まだ途中だけど……」


 遥香はそのうちの一冊を手に取り、ゆっくりとページをめくっていく。


 一ページ目――顔の輪郭。

 二ページ目――制服のしわの表現。

 そして三ページ目で、遥香の指が止まった。


 そこには――


 ブラウスの隙間に、淡く、けれど確かに“ピンク色の曲線”が描かれていた。


 影として描いたのか、意識的だったのか。

 どちらにせよ、それは「見ていなければ描けない角度と構図」だった。


 遥香の唇が、かすかに震える。


(……これって……)


 後ろから、女子部員のひとりが覗き込む。


「え、なにこれ、ピンク……? ……ブラ?」

「……男子席から、これ……見えてたの……?」


 空気が、凍りついた。


 遥香の表情が、固まる。


 男子部員たちは――誰も否定しなかった。

 けれど、誰も肯定もしなかった。


 その沈黙こそが、すべてを物語っていた。


 他の二冊にも、ほぼ同じ場所に、同じような色味の線が描かれていた。

 筆致の違いこそあれ、三人とも、“そこにあったもの”をただ忠実に描き写していたのだ。


 遥香はスケッチブックをそっと閉じた。手がかすかに震えていた。

 ……どうして、誰も言ってくれなかったんだろう。


 目元にうっすらと赤みを浮かべながら、小さな声でつぶやく。


「……わたし……ボタン、外れてたんだね」


 言いながら、外れていたボタンをサッと留める。


 誰も答えなかった。

 でも、その答えを知っている目が、三つだけあった。


「……うん……見えてた、かも……」

「ごめん、なんか言いづらくて……」


 ぽつりと、小さな声が落ちた。


「……ごめんなさい、次からは確認してから来るようにします……」


 遥香はそれだけ言うと、深々と頭を下げて部室を出ていった。


 ドアの閉まる音が、静かに美術室に響いた。


***


 机の上には、残された三冊のスケッチブック。

 中に描かれた“ピンクの証拠”は、名前も書かれぬまま、静かに並んでいた。


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